南部スーダンでランドクルーザーが大渋滞している件

このエントリーでは、スーダンの歴史や現状を、ざっくりまとめた。このあたりの知識は、ダルフール問題をもっと広い視点でとらえる手助けにもなると思う。
タイトルは釣りっぽいけど本当。南部スーダンの中心都市ジュバ(Juba)において車両整備事業をやっている、JVCの今井さんからそう聞いた。
JVC は、日本の国際協力NGOで、スーダンでは車両整備による国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)や国際NGOへの協力と、帰還難民の職業訓練として整備士育成を行っている。今回、一時帰国中のスーダン現地代表の今井さんと、整備士として現地で3年間研修生を育て、任期を終えて帰国した井谷さんの報告会があり、僕はJVCでボランティアをやっているおかげで、都合3回も聞くことができた。
このエントリーは、その3回の報告会をベースに書いている。

地理:ナイル川と人の流れ

スーダンの真ん中をナイル〜白ナイルが縦に通っている。
その水路の終着点に、南部スーダンの中心都市、ジュバがある。
南部スーダンにはもともとアフリカ系の民族が住んでいたが、白ナイルを使い、北部からアラブ系の商人が入り、共存してきた。今でもジュバで商店を営むアラブ人は多い。

歴史:アフリカ最長の内戦の歴史

スーダンは植民地時代、北はエジプト、南はイギリスによって分断統治されていた。
北側はエジプトによって開発が進んだが、南部、東部、ダルフール地方は低開発状態にあった。独立は1956年。
独立2年前の1954年、南北内戦が勃発。
内戦の原因は、一般的には、北部アラブ系 v.s. 南部アフリカ系、北部イスラム教 v.s. 南部キリスト教という見られ方がされがちで、wikipediaにも以下のように記載されている。

独立運動の主体及び自治政府が北部のイスラム教徒中心であったため、1955年に南北内戦が勃発し北部の「アラブ系」イスラム教徒と南部の主に黒人の非アラブ系(主にアニミズム、一部キリスト教徒)が戦った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3

NHK視点・論点でも、アラブ・アフリカ系の対立として語られている。

スーダンはアフリカ最大の面積を持ち、
首都ハルツームがある北部・東部一帯のアラブ系と、
南部・西部の黒人系があり、元もと対立を抱えていました。
けれど植民地支配していたイギリスやエジプトが力で抑えていました。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/3725.html

一方報告会で語られたところによると、原因は、前述の南北格差、北部ハルツーム(首都)中心の政治に不満のたまった南部の反乱という面が大きいのだという。
民族や宗教は南北で混じっていて、はっきり分かれているわけではない。アラブ系とアフリカ系の混血の人々も多くいる。南部の反乱に対して政府が「キリスト教に対するイスラムの聖戦だ!」と宣言したため、宗教対立というイメージがついた。
内戦は1972年にいったん終結するも、1983年に再開、その後2005年まで続き、22年間というアフリカ最長の内戦となった。
第二次内戦の主体は、北部はスーダン政府、南部はSPLAであったが、SPLAはその後3派に分裂し、派閥間でも闘争があった。紛争終結により、政府と和平協定を結んだSPLA主流派に、他派閥も合流している。
2005年の紛争終結は南北間だけのもので、未だ紛争の続いているダルフールや東部は取り残された形となった。この一部だけでの和平協定は、アメリカからの力添えに寄るところが大きい。また、ダルフールは、南北内戦とは色合いが異なるという指摘もある。

しかし、ダルフールで迫害された民衆には反乱の意図はなく、また武器もない。つまり、絶対的な非対称性が成立している。
スーダン問題について: 極東ブログ

単に3つの紛争のうち1つが終結した、という、単純な構図ではないようだ。

内戦終結後の政治体制

和平協定にはパワーシェアリングが盛り込まれた。政権ポストや議席の分配について、南北どちらから何人出すかという、停戦後の政治構造は、この中であらかじめ決められていた。先頃逮捕状の出されたアル=バシール大統領はこの協定に基づいて大統領の座に居座り続けている。副大統領にはSPLAのガラン最高司令官が就いたが、直後に事故死している。


2009年には総選挙が予定されており、これによりスーダン民主化がなされるはずだが、準備は進んでいない。
和平協定ではまた、南部に大きな自治権が与えられ、南部スーダン自治政府が誕生した。これにより、南部はほぼ独立国のような状態にある。2011年に南部独立の是非を問う選挙も予定されているが、大きな課題を残している(後述)。


独立について、当の南部政府の見解だが、彼らはまず自分たちを「スーダン人」と呼び、決して「南部スーダン人」とは呼ばない。
SPLAのポリシーは"New Sudan"、民主化された新しい国づくりを目指しており、南部スーダンの独立を目指しているのではない。

南部スーダンダルフール

南部自治政府は、ダルフール、東部の、同じく虐げられてきた人々と協力したいと考えている。
彼らはダルフールの和平を進めようと積極的に動いている。ダルフールの反政府勢力は規模大きさから大2、中3、小たくさんと、複雑な情勢になっているが、南部自治政府は2年前から、彼ら反政府勢力同士の対話の場を作るための仲介をしている。


ICCからアル=バシールに逮捕状が出されたこと、その報復として国際NGOが国外に追放されたことについて、最近の報道で目にした人も多いと思う。
追放されたのは大手NGO13団体で、ダルフールでの人道支援活動の4,50%にあたる。大変な事態ではあるが、これについての南部の対応も、スーダン政府とは雰囲気ががらりと変わる。
南部自治政府は、国連機関やNGO向けに説明を行った。それによると、
「大統領への逮捕状について、南部自治政府は静観する。(支持も非難もしない)」
NGO追放は北部だけの話であって、南部での活動には全く影響はない。」
「この件についてデモを起こすことも自由であり、政府としては止められない。しかし、そのような運動は、共感を得られないだろう。」
ずいぶん含みを残した説明だが、ここから南北政府、ダルフール、そして国際社会の微妙な距離感がうかがえる。

石油の歴史

内戦のもうひとつの大きな要因として、石油利権がある。石油はスーダンの大きな大きな収入源で、南部自治政府はその収入の実に90%を石油に頼っている。
スーダンの油田は1975年に、アビエイのあたり、南北境界の曖昧な地域で発見された。これが第二次内戦を誘発した。
内戦により輸出はストップしたが、1999年に再開、その後2006年までは日本が第一位の輸出先だった。その後は中国に取って代わられている。
中国が石油利権のためにダルフールに肩入れしているという話はよく聞かれる。一方日本はというと、「石油収入がダルフール問題につながる!」との人権団体のアピールもあって、九州電力関西電力が2005年にスーダンからの石油輸入を取りやめた。しかし、他の電力会社は、未だにスーダンからの輸入を続けている。


2005年の和平協定には、ウェルシェアリング、石油収入分配についても盛込まれていた。分け方は単純に南北で50/50。であるが、管理している北部が総産出量を明かさないため、南部では構成に分配されていないのではないかとの見方もある。
南北の境界問題は、産油地のアビエイを含め、未だ曖昧なままの地域があり、それらの地域では内戦終結後も戦闘が起きている。2011年の独立選挙までには、これらの地域が南北どちらに属するか決める必要があるが、南北ともに欲しい地域であり、今後も紛争の火種になる恐れがある。

内戦による難民

長期の内戦によって、スーダンでは多くの国内避難民(ICP)、海外難民が発生した。以下、それぞれの発生数と、2008年までの帰還者数。

  発生数 帰還者数(2008年まで)
国内避難民 400万人 200万人
海外難民 40万人 30万人

UNHCR は、トラックで隊列を作って難民を帰還させる事業を行ってきた。難民全てを帰還させることは不可能で、2009年に4万人の海外難民を帰還させ、そこで UNHCRのオペレーションは終了となる。6万人の難民はキャンプに残ることになるが、彼らの帰還支援は続けていく。


スーダンは、難民がなかなか帰還しなかった。
帰還しても教育体制が整っていないため、難民キャンプに残り、ある程度の教育を受けようとする人々が多く、子供が大きくなるまで難民キャンプにいることもあった。
また、治安の問題もある(後述)。

DDR

DDRとは、武装解除・動員解除・社会復帰(Disarmament, Demobilization, Reintegration)の略称。平和構築活動の主要なプロセスである。このプロセスの進捗から、内戦終結後、人々の生活がどこまで元に戻ったかが窺える。

武装解除

農村住民の武装解除が、スーダンでは大きな課題となっている。
スーダンでは古くから、村を襲って家畜を得る、Cattle Raidingという行為が行われていた。襲う側は、せいぜい弓矢程度の武器を使っていた。
内戦が始まると、住民は容易に武器を手に入れることができるようになり、武装した。「自分達はこちら軍に属する」と言えば、そこから武器を手に入れることができたのだ。
現在のCattle Raidingは、こうして武装した住民によって行われるようになった。当然死傷者は激増している。


治安の問題でもうひとつ、LRA(神の抵抗軍)がある。子供をさらって少年兵に仕立てることで悪名高いこの組織は、ウガンダの反政府勢力である。スーダンのアル=バシール大統領と同じく、ICCから逮捕状が出ている。
このLRA、拠点はコンゴにあるが、南部スーダン内の国境地域でも活動をしている。このため一般人は南部の国境に近づくことができず、また南部スーダンの国内避難民も生んでいる。


報告会では、田舎道の朽ちた戦車や、立ち入り禁止のテープで囲まれた廃墟の写真が紹介された。廃墟の中には不発弾があるのだという。
また、街には未だに高射砲がとのことだが、写真は無かった。写真を撮ると逮捕されかねないのだそうだ。


これらの状況から、農村部も未だ、内戦前の安定した状態にあるとは言い難い。

動員解除

2009年2月からようやくスタートした。既に紛争終結から4年経っている。
遅れた原因は互いの不信感によるもので、それはSPLA最高司令官の不可解な事故死や、石油利権をめぐる問題を見れば想像できる。
ではなぜ今になって動員解除が始まったのか。それは石油価格の下落のためだ。スーダンの経済が石油収入に大きく依存していることは既に述べたが、最近の石油価格の下落により、南部自治政府の今年の予算は、前年比25%減となった。これにより軍隊が維持できなくなり、動員解除せざるを得なくなったのが実情である。


動員解除を進めるにも金がかかる。それは例えば退役軍人への手当てだったりするのだが、このための資金が集まる目処も立っていない。この資金は南北両政府に必要となるが、北にはダルフール問題があるため、支援しづらい状況になっている。
日本はこれに対し、1,700万円の拠出を決めた。このことは、他国の支援の呼び水になると、めずらしく国際社会の評価を受けた。

社会復帰

農村部

国内避難民、難民の大多数は、農村の出身者だ。彼らが村に帰還する際、FAOから種が配られる。彼らは、それを元に農業を始める。
報告会ではウガンダとの国境あたりの様子が語られていた。
このあたりの土地は肥沃で、農業に適している。生活再建はハイペースで進み、初期1,2年の支援があれば、農家としては自立できそうである。1年目の収穫は自家消費、2年目には次の年の種まで確保し、3年目からは換金分も作り始める、といった具合だ。
ただ、そうは言っても学費・医療費など、農村部でも現金収入の必要はあり、都市部への出稼ぎもおこなわれている。


難民キャンプで教育を受けるため、帰還が遅れるケースがあることは前述の通りだが、これを見てもわかるとおり、スーダン人は教育熱心だ。しかし、教育を受けた帰還難民でも、「学校の先生にはなりたくない。」のだという。
これは、給料の支払いが遅延する、支払われないことは多々あるため、教師だけでは生活が困難だからだ。このため教師は大きく不足しており、村の先生の半分はボランティアでまかなわれている。

都市部

一方で、出身の農村に帰らず、都会で生きようとする帰還難民も多い。彼らはキャンプで教育を受けた自負があるため、それにふさわしい仕事を求めて都会に出る。都会の方がえらいというメンタリティがあるのだ。
都会にも村出身者のコミュニティがあり、彼らはそこで親類縁者を頼り、居候として都会に居つく。


南部の中心都市ジュバ(Juba)。「世界最大の村」とも呼ばれるこの都市は今、復興景気に沸いている。外資系の企業の進出も多い。人口はここ3年で20万人から50万人へと倍以上も伸びた。帰還難民の流入が大きな要因だ。
ここ3年で、道路整備も大きく進み、渋滞まで起きている。南部スーダンへの国際社会の支援は手厚く、ジュバでは国連機関(UNxxと書かれている)、国際 NGOの車を数多く見かける。彼らの車はランドクルーザー率が非常に高い。タイトルにある状況はこのようにして生まれた。


これを見ると、ジュバでは労働者の需要が伸び、帰還難民の就職に結びついているかのように思えるが、実際はそうではない。
外資系の企業は、スーダン人を雇いたがらず(理由は後述)、同時に外国からの出稼ぎ労働者も連れてくる。このためジュバの街では、昼間からブラブラするスーダン人男性を、多く見かけることとなる。
南部自治政府も、外資系企業の誘致に熱心である。一方でスーダン人企業は少なく、帰還難民の都会での就労は非常に厳しい。
難民キャンプの多くで職業訓練が行われているが、帰還後の就職率は1%というところもあり、5割もあればすごい、と言われるような状況だ。
このため、彼らの主な就職先は国連機関やNGOとなる。こちらも門戸は狭い。


都会で無職の生活は厳しい。スーダンは物価が高く、例えばキャベツは300円くらいする。
都会に出てきた青年は一様に「村に居たほうがたくさん食べられる」と言い、どちらで生活するべきか気持ちが揺れている。

ジュバの強制撤去

また、再開発による強制撤去がはじまった。ジュバには、近隣の地域から集まってきた人々の暮らすコミュニティがあり、その人々は30年もその土地で家を持ち暮らしている。内戦終結後、このコミュニティは帰還難民を受け入れる役割も果たしてきた。政府はこれを、土地の登記がないので不法占拠だとして、再開発のための強制撤去を進めている。
これにより、いくつものコミュニティと、ジュバ最大のマーケットが土地を追われることとなった。
南部スーダンで活動する国連機関や国際NGOは、これに対して今のところアクションを起こしていない。
国連機関や国際NGOが、南部自治政府に対して好意的なため、声を上げにくい状況にあるのだという。この件はJVCとしても反省として語っていた。

南北に色分けされるスーダンスーダンに対する国際社会の姿勢

前述の動員解除や石油の輸入の対応を見れば分かるとおり、欧米はスーダンの南北政府をはっきり色分けしている。南部には多くの援助を出しているが、北部ではダルフール向け以外の援助をしていない。一方日本はというと、未だスーダンから石油の輸入をしていたりという部分がある。
報告会参加者からは、「日本はほぼ無条件で資金援助をしている。それが社会正義につながるか、もっと検討すべきだ」という意見もあった。


スーダンの概況は以上。次からはJVCの事業と、スーダン人の気質について書く。

JVCの事業−車両整備と整備士育成による国際協力

さて、今回お話を伺ったのは、JVC南スーダン事業の報告である。JVCでは南スーダンで車両整備事業と整備士育成による帰還難民の就職支援を行っている。国際協力NGOがフィールドで行うことといえば、緊急支援(医療・食糧支援)、井戸掘り、学校建設、公衆衛生、なんてことをイメージしがちで、そこへきて車両整備と聞くと、なんで?と思うかもしれない。実際僕も思ったが、次のような経緯があった。
元々JVCに、車両整備できる人間がたまたま居た、というのが事の発端であった。以前、要請を受け、こちらもフィールドであるカンボジアで、UNHCR向けに車両整備を行った。国連機関、NGO向けの車両整備事業というのは、JVC以外でやっているところはなく、その後も声がかかるようになった。
車両整備は国連機関、NGOにとって大変重要なサービスである。彼らのフィールドは道なき道の先にある。ひどいでこぼこ道や、車の窓辺りくらいの深さのある水たまりを越えての移動で、車は日本では考えられないようなダメージを受ける。そして彼らは、車がなければフィールドに行くことができない。車両故障が活動停止につながってしまうのである。
この足回りを支えるためには、短納期での、質の高い整備が必要で、その役割をJVCが担っている。
今回お話を聞いた今井さんは、JVCスーダン現地代表で、これらの事業を統括する立場にある。また、井谷さんは、工場に務める日本人メカニックとして、また整備士育成の講師役として、役3年間同工場で働いた。
プロジェクトは2009年で終了予定。2010年には、工場のオーナーであるスーダン教会評議会に運営を委譲する。

車両整備工場

車両整備工場はジュバにある。オーナーはスーダン協会評議会で、JVCがその運営を行っている。月間80台の整備を行い、平均月産が2008年で約12,500SP(スーダンポンド、約55万円くらい)。業績は右肩上がりで、月産20,000SPを越える月も出てきた。
工場の収入は事業開始後の2年間で大きく伸びた。これはジュバの復興景気のほか、今井さんが地道に開拓した国際NGOの顧客、そして彼らの求める短期間で質の高い整備に応えてきた、同工場の信頼の大きさを伺わせる。


こう書くと、ずいぶんビジネスライクな事業に聞こえるが、これの立ち上げ時は相当大変だったようである。
まず工場。スーダン教会評議会がオーナーなのだが、第2次内戦中に荒廃してから放ったらかしになっていた工場を、JVCが借り受けた。当時は工場とは名ばかりで、かろうじて屋根があるだけ、設備もなく、あるのは使えるパーツがあらかた盗まれた廃車ばかり。ここの廃車を片付け、設備を整え、屋根壁を追加・補修して、工場として機能するようにしたのである。
面倒を見る車両はトヨタ車、とくにランドクルーザーが多く、この部品の仕入れにも苦労した。輸入経路を、一から開拓しなければならなかった。いまはドバイ経由のルートが確保できているが、注文から納品まで約1ヶ月もかかり、先々を見越した在庫管理が必要になってくる。


技術者の数の少なさもネックになっている。スーダンにメカニックも居るには居るが、技術レベルは低い。募集をかけて技術テストをしてみても、同工場で育てている研修生の方がよくできる。
工場では2010年の経営委譲に向けて、井谷を引き上げ、その仕事を引き継ぐスーダン人スタッフを探した。しかしなかなか見つからず、結局他国出身の2名を新たに雇い、彼らに頼ることになってしまう。

整備士育成

もう一つの柱として、整備士育成を行っている。これは、帰還難民の就労支援が目的だ。期間は、前回が1年半、今回は短縮して1年となった。他の機関の職業訓練が3〜6ヶ月であることを考えると、1年半という期間は、異例の長さだ。


この研修は、整備助手になれる技術レベルを目標としている。研修内容は、OJT中心で、プラス座学が少々。整備工場で預かるお客様の車が教材となる(お客様にはご了解を得ているそうだ。)ため、大変実践的なOJTが行える。このため、研修用の車を相手にしている日本の学生よりも、技術向上は早い。
座学は週一回、日本の整備士学校で2年かけて教える内容を、ダイジェストで教える。ペーパーテストも行う。優秀な学生は100点を取ることもあり、問題を作った井谷さんは悔しがっていた。
学科での課題は電気。この科目が難しい。通常の授業期間では教え切ることができないので、成績優秀者を募り、毎朝授業を行なった。


第一期の研修1年半は、昨年の12月に卒業した。翌2009年1月から、第2期が始まっている。工場の評判か研修の評判か、応募者は200人も集まった。

スーダン人は働かない?

ジュバに進出したウガンダケニアの企業は、その国の出稼ぎ労働者を雇っている。こうした企業の経営者たちは、口をそろえて、スーダン人は働かない、という。要求が多い、無断欠勤する、すぐに会社を訴える・・・
一方難民キャンプでの職業訓練でも、スーダン人は簡単にドロップアウトする。多くの職業訓練は3〜6ヶ月なのだが、それでも脱落者を出さずに研修を終えるのは非常に難しい。JVCの場合も例外ではなく、コース開始当初は当初は応募者10人中5人がドロップアウトするということを経験している。第一期は、このドロップアウト後残った5名と、追加募集により集まった10名によって構成されていた。
こうしたスーダン人の性格は、車両整備事業、整備士育成共通の、もっとも大きな課題であった。

スーダン人と働くということ。

実際にスーダン人と働き始めたころ、井谷さんは「何でこんなに働かないの?」と思うことが何度もあったそうだ。無断欠勤や休暇の要求は言われているとおりで、それ以外に職場でもサボりがちだし、他の人を手伝おうとしない、声かけができない、などなど、日本人から見ると信じられない勤務態度である。
彼らは集団行動もできないし、非常に利己的に見えてしまう。しかしそれは、スーダン人が生まれつき持つ気質ではなく、ただ働き方を知らないだけかもしれない。スーダン人男性は、企業に所属して働くという経験を、ほぼ持たない。それどころか、内戦でろくに学校にも通えていない。井谷さんは言う。「彼らは遊びながら社会を学ぶ、という経験をしてこなかった。」


彼らのやる気を起こすため、いろいろな取り組みを行ったのだそうだ。たとえば、遅刻・無断欠勤に対する、厳しくも手厚いケアである。遅刻・欠勤については厳密に減給した。さらに欠勤者の家を訪ね、欠勤の理由を聞いた。
また、今後は皆勤者や土曜出勤者に報奨を出す。いままでのムチに加え、今度はアメも使う。月産20,000SPを超えた月にはボーナスも出した。
このような取り組みも功を奏し、さらに「やるからやる気が出る」と脳科学者の池谷裕二氏が言うとおり、仕事が忙しくなるにつれ、自然とモチベーションも上がった。
そしてなにより、長く働いているうちに、彼らは雇われ、働く、ということに慣れていった。いま現在、工場で働いている人の勤務態度は良い。工員をケアしながら、長く、辛抱強く人を使う。スーダン人を育てたのは、この日本的な経営だった。


ただ、工具の管理だけは、どうしてもいまだにできない。メカニックは各自自分の工具箱が支給される。この管理は皆できており、使ったあとは鍵をかけてしまう。問題は、工場共有の工具だ。彼らはそれも自分の工具箱に入れてしまう。「工具は我々整備士の手なのだから、大事にしないといけない!」工場長は口をすっぱくして言い続けているが、それでも直らず、彼らも耳にタコのようだ。

研修生のドロップアウト

働かないのは工場のスタッフだけではない。研修生もまた同じように修学態度が悪い。そして、前述の通り、彼らは簡単にドロップアウトしてしまう。
この経験からJVCは、ドロップアウトを予防策を行っている。
そのひとつが、手当て(月100ドル)の支給である。研修生はすべて都会の親戚の家に居候しているため、経済的にも厳しい状況にある。工場で出るお昼ご飯が、その日唯一の食事という人も、中には存在する。
スタッフと同じように、欠勤者のケアや減給も行った。
研修途中で、成績優秀者をアシスタントメカニックとして雇った。手当が給料にかわり、2万円もらえるようになった。がんばれば収入が増える。これも動機付けのひとつだ。


研修生もそれに応え、大学進学のため途中で離脱した1名を除く14名全員が、1年半の研修を修了した。
彼らの内、外部へ就職したのが3人、JVC工場に就職したのが6人。一方、卒業生の内、3人が現在も求職中である。大学進学希望の2名をのぞくと、12人中9人、就職率75%というのは、先の難民キャンプでの職業訓練と比べると驚異的な数字だが、これだけやっても外部への就職が3人というのは、厳しい社会情勢を実感せざるを得ない。

井谷さん最後の朝礼

井谷さんは、もとは某自動車ディーラーのメカニックだった。職歴も17年と長く、その間は働き詰めだった。
それが17年目にして退職、青年海外協力隊として、ヨルダンで2年半を過ごす。
「平たく言えば、現実逃避です。」協力隊に進んだ理由を語ろうした井谷さんは、説明に苦労した挙句、自嘲気味にそう言った。
もう5年以上前の決断なのに、いまだ言葉にしにくい、もやもやとした思いがあるのだろう。
その後、国際協力の仕事にハマった。「日本で仕事をしていても、先が見えてしまう。一方国際協力の仕事は、明日どうなるかわからない、手探りの日々。大変だけど、面白い。」
そうしてJVCスーダン事業に携わることとなる。


離任の日、井谷さんは最後の朝礼で、こんなことを話した。
「私が離れたあと、日本人メカニックはもう来ない。井谷という人間のことは忘れてもらっていい。ただ、自分の残したもの、教えたことは、忘れないでほしい。そして最後に一言。この工場の設備、そして我々の技術は、南スーダンで一番なんだ!」
井谷さんは、メカニックとしての誇りを、工場に残したかったのだろう。工員・研修生全員が、その誇り共有できたとは、正直思えない。
でも、彼らはこれから仕事につまるたび、井谷さんはどうやっていただろうと、その働く姿を思い出す。そのたびに、井谷さんの背後に見える誇りが、彼らに根付いてゆくような気がする。