長沼行太郎『嫌老社会 老いを拒絶する時代 [ソフトバンク新書]』

以下の書評を読んで購入した。こちらの書評も読むことをお勧めする。
404 Blog Not Found:嫌老社会


さっくりと読み終わった。読ませる文章ではないし、構成も少しとっちらかっている印象がある、しかし、お薦めしたい本である。「読んで欲しい」ではなく、「読んでおいた方がいいんじゃない?」というふうに。


老いは、現役時代の格差が固定化される現象である。この指摘には目を覚まされた。老いは現実問題である。そしてそれは、想像よりも非常に早い段階で訪れる。


自分の老いの前に、まず親の老いである。
両親がどのような老後のプランを持っているのか。働き続けるのか、年金暮らしになるのか。年金だけで生活は可能なのか、蓄えはあるのか、自分からの援助は必要なのか。親と離れて暮らしている場合、親は地元に残りたいのか、自分と暮らしたいのか、兄弟のところへ行きたいのか。親を呼び寄せる場合に一緒に暮らすか、近くに別の世帯を持ってもらうか。地元には生活をサポートしてもらえる人はいるのか。施設に入る意思はあるのか、施設に入ることはできるのか。健康を崩したら一緒に暮らすか、介護可能か。

これらのことは、いずれ自分の老いとしても考えなくてはならない場面が来る。

考えなければならない、そう思っている人は多く、しかしそれを具体的に考えている人は少ない。「老後の生活設計」を不安に思っている人は50%を越えるのだという。*1
一般的な両親との年齢差を30歳ぐらいと考えると、両親がリタイアするのは自身が20代後半〜30代の頃である。リタイヤ前に老後のプランを練るなら、20代に入った頃から考え始めなくてはならない。


本書は現在の福祉制度や団塊世代内の格差など、上記の問題を顕在化させるような具体的な話からはじまり、歴史上、文化上の老い扱いといったより抽象的な話に落ちていく。

「新しさ」「若さ」を重要視する近代社会は、老人に価値を見いださず、言ってしまえば「廃棄物」のごとき処遇を与えてきた。近年では「アクティブシニア」「生涯現役」という言葉とともに、老人は従来のイメージで捉え切れないという意識が浸透してきている。
しかしそのどちらにも共通して言えるのは、「有為・有用」性で価値を計る見かたであり、「無用・有害」の老いについては、価値を見いだせていないのである。

日本の「ぴんぴんころり(PPK)」の思想、ぴんぴん元気で寝たきりにならず、ころりと死ぬ、介護・医療に世話にならない、自立した期間を長くするという、前向きな嫌老思想でもそれは同様で、老いて介護が必要になってしまった場合のことは言及されない。見て見ぬふりである。

本書で紹介されていた、ボーヴォワールの言葉が思い出される。

現役でなくなった構成員をどう処遇するかによって、社会はその真の相貌をさらけだす
『老い』ボーヴォワール


ところで、本書では、老人と子供の相補性も指摘されている。

絵巻物などに、しばしば子どもが老人の歩行を助ける場面が出てくる。伝統的な社会では子どもとともに老人は、人生の始点と終点という社会の周縁的な位置にある、他者に依存せずには生きられない存在として、対称的で、相互に補完しあう関係にあった。子どもが老人の足りないところをおぎない、祖父母が孫のお守りをし、老人が子どもに知恵と文化を伝承していった。
本書 P.82

現在老人ホームに保育所などを併設する動きが盛んになってきており、それがまた双方にとって有益であることがわかってきているそうである。

「無用・有害」の老いを克服するカギはこの辺りにあるように思える。

*1:2003年内閣府世論調査、本書P.31より