ロン・ハワード『ダ・ヴィンチ・コード』

人気小説の映画化。

あまりよい映画ではない。どの場面でも情報密度が高く、字幕も映像も一瞬たりとも見逃せない。しかし、原作を知っていると、あまりに情報が不足しているように感じる。そのような矛盾した印象を受ける。消化不良のままの、息が詰まりそうな緊張、それが2時間半ずっと続く。映像に緩急が無く、常に重要に思える、そして原作では実際に重要であった場面が続く。音楽もほとんどが仰々しいオーケストラで、その緊張をさらに煽る。休憩できる場面はまったくなく、見終えた後に残るのはただただ疲労感である。


気になったのは小説を読まずに見る人にはどのように映るのかということだったのだが、mixiのレビューを見るとやはり、難しい、展開早い、説明少ないという意見が目立っていた。
ストーリーはがんばって原作を追っているように見えるが、時間短縮のために削ってある場面も多々ある。たとえばクリプテックスはひとつだけだし、序盤の美術館での絵を盾にした攻防もない。


さて、内容の方なのだが、2点、教会寄りの描写と性的な話の回避について指摘したい。


まずは、教会寄りの描写ということについて、小説と比較すると、そのような印象を受ける。これは時間短縮のためリー・ティービング(イアン・マッケラン)やロバート・ラングドントム・ハンクス)の語る薀蓄をばっさりカットしたためかもしれないが、おそらくそうではなく、現実の教会に配慮した結果であろう。

もっとも教会寄りとなったのはラングドンであろう。そのためか、ティービングは学者というよりも女神の狂信者という印象が強くなった。小説ではなかったように記憶しているのだが、ティービング邸での講義ではラングドンティービングがしばしば意見を異にし、ティービングが極端な見解を持ち込みラングドンが抗議するという形となった。ティービングの語る内容は小説と変わりないように思えるが、それに対してラングドンが慎重な見解を述べる。これは教会を擁護しているように見える。
ラストシーンでもそれが顕著で、キリストの末裔であるとわかったヌヴーに対し、ラングドンは、信仰を壊すことを望むか、それとも信仰を守ることを望むか、と、暗にキリストの子孫であるという秘密を守り続けるように言う。

もうひとつ、シラスの描かれ方というのがある。これは小説からの変更ではなく、ただただ映像の力で僕がそう感じたのだが、小説でのシラスは映画と同じく狂信者ではあったものの、悪意に満ちた存在であった。しかし映画では信仰が彼を動かしていることがはっきりとわかり、狂信者には見えても悪人には見えなかった。さらに小説では病院内でなんとなく改心するのだが、映画では重症のアリンガローサを抱きしめ後悔の雄叫びを上げている最中に銃殺される。悲劇性が高く、同情すら覚える。
シラスは狂信者であるものの、無慈悲なアルビノモンスターではなく、教会に救われた人間であった。小説でも書かれてはいたが映画でようやくそれを実感することが出来た。これがこの映画での一番の収穫であった。

話を元に戻すと、ティービングとシラスは、それぞれ女神の狂信者と、オプス・デイの狂信者として同列となる。自らの信仰を貫けば相手の信仰を破壊してしまうという、解消しがたい対立となって描かれる。小説では、ティービングの考えは一段上の階層にあり、対比されることはなかった。
先に挙げたラングドンのラストシーンでもそうなのだが、映画では教会とその秘密を暴く者という対立になっている。上位レイヤーにあった秘密の探求を下に降ろし教会と同列にしたため、小説よりも教会寄りの描写となっているのである。


もうひとつ、性的な話の回避について。シオン修道会における聖婚(ヒエロス・ガモス)の儀式が、映画では申し訳程度にしか触れられていない。
ちなみにこの儀式は、ソニエールが行い、ソフィー・ヌヴーオドレイ・トトゥ)にそれを目撃されて、絶縁の原因となった。
小説版の方では、ヌヴーはこれがトラウマとなり語ることをためらったため、序盤から暗示されていながら終盤まで明かされないという、ミステリー上も重要な謎であった。さらにラングドンが聖婚についての解説をし、それを聞いてヌヴーがトラウマから開放されるという、ドラマ的にも重要な位置を占めていたものだった。
一方映画では、ヌヴーが家族について調べようとしたところソニエールにひどく怒られ、さらに全寮制の学校に入れられたことが絶縁の原因のように描かれており、それに説得力を持たせるためか、ソニエールはヌヴーと本当の家族ではなかったという実にアクロバティックな設定変更をしている。ラングドンの聖婚についての講義も終盤のヌヴーとの二人きりの場面ではなく、ティービングとの論戦中にそれとなく触れるにとどまっている。

また、先ほども触れたラストシーンだが、小説ではヌヴーがラングドンを誘い、ラングドンがそれに応えるというところで終わる。ハリウッド的な終わり方であるものの、ラングドンの聖婚の講義によってセックスについての新たな見識が読者に生まれ、さらにヌヴーのトラウマからの解放というドラマがあるので、これがいやらしく見えない。
が、映画ではこのラストシーンがそっくりすげ替えられている。伏線部分も簡単にしか触れられていないところも合わせて考えると、意図的に性的な部分を排除したように見える。

これについては、理由がよく見えない。端折った説明では理解を得にくい題材だから、時間を考えると入れられなかったのであろうか。もしくはシオン修道会への配慮か。しかし、オプス・デイへの配慮は、まったくなされていないように見える。


なぜこのような作品になったのか。そう思って監督の他の作品を見ると『ビューティフル・マインド』やテレビの『24 TWENTY FOUR』色々と有名な映画を撮っているようだ。残念ながら僕は『アポロ13』しか見たことがないが、この映画は好きだった。そういえば、『アポロ13』もトム・ハンクスとのコンビだ。


やはり名作の映画化というのは、『ロード・オブ・ザ・リング』のようにそれが好きで好きで映画にでもしなけりゃしょうがないというような監督か、さもなければ映画は私のものだと言わんばかりに原作を壊して自分の映画にしてしまうような我の強い監督にやらせるのがいい。