竹中平蔵批判

NHKスペシャル「<小泉改革5年を問う>第2回・徹底討論・どうする“改革”と“格差”」を見た。
竹中平蔵の発言があまりにひどかった。二つある。


ひとつは格差を示すデータの正当性をめぐるやり取りから。竹中がデータからは見えてこないこともあると発言し、民主党逢坂誠二がそれならば格差の現場を見て、声を聞けと返した。それに答えて竹中が言ったのが、国民一億二千万人全部を見るのは無理なんですということだった。


僕は憤慨してテレビを消し、頭を冷やすためにシャワーを浴びたが、風呂に入るには丁度よいタイミングでの発言だった。
その発言については同番組の出席者である民主党逢坂誠二も憤慨したようで、ブログにおいて番組内で反論できなかったことが悔しいと述べ、かわりにブログで反論をしている。以下にそれを引用する。

== 竹中大臣の発言 ==

 ・ 国民の声を全て聞くのは無理である旨の発言

国民の声を聞くのは難しい作業だ。
しかし、政治家が、
そのことを放棄することは許されない。
特に弱い立場、
大きな声を発することが出来ない皆さんの声に
真摯に耳を傾ける姿勢が重要だ。

国民の声を聞く作業は簡単なことではないが、
国民の声を聞くという基本姿勢を崩すことは
政治家の責任放棄だ。

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http://www5a.biglobe.ne.jp/~niseko/(※現在はページが更新されて、記事がなくなっている)

逢坂誠二の反論はごく当たり前のことを言っている。が、竹中平蔵はそれが出来ないというのだ。なぜこのような人間が国会議員でいられるのか。


この話で思いついたのが日露戦争の旅順攻囲戦の話で、このときは司令部があまりに前線から離れていたためその戦闘の様子をよく把握できず、適切な指示が与えられなかった。旅順攻略を遅らせ、日本側に多数の死傷者を出した一因である。
毎日新聞の以下のサイトで特集されている、貧困や過酷な労働に悲鳴を上げる庶民は、旅順で無為に戦死していった日本兵と同じではないか。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/tatenarabi/archive/


現場を見ずに市場原理という理論を何より優先する。これは丸山真男が「過度合理主義的」と批判しているものそのものなのではないか。
その批判を引用する。丸山真男は理論と個別的状況との間にはつねにギャップがあり、そのギャップをとびこえるには「賭け」しか残されていないとした上で、次のように批判する。

ルールによって汲み尽されない非合理面にたいして「賭け」るからこそ、その賭けは自己の責任における賭けになる。そうでなくて、トータルな理論がトータルな現実と対応し、したがって「正しい実践」が理論からいわば内在的必然的に出て来るという想定が作用しているところには、人格的決断はつねに一般的=普遍的なもの―プロレタリアートとか人民大衆とか世界観とか―に還元されるから、それだけ政治的責任の意識は退行するし、状況を自己の責任において操作する可能性も見失われてしまうのである。
日本の思想 (岩波新書)』P.94(強調は原文による)

さらに、政治の全体像を仮に「大政治」として、こう述べる。

問題は、大政治が日常政治のいわば積分の関係におかれるよりは、むしろ日常政治(日常闘争といってもいいが、政治が日常的人間関係の次元に降りてくればくるほど、それは「闘争」という言葉で表現しきれない陰影を帯びて来る)があたかも大政治の単純な縮小再生産、つまり小文字で書いた全社会=あるいは全世界的規模での階級闘争として観念されていたというところにある。これはさきにのべたところ―「理論」からはみ出る個別的決断の問題を意識化することを軽視し、さらには日常的観察における例外的事態から仮説を作って行く科学的思考過程が脱落している問題とあきらかに同じ根から発している。
前掲書P.P.98-99(強調は原文による)


もうひとつ。経済について少し難しい議論が一通り終わったあと、「今の議論、視聴者の方は誰もお分かりにならないと思いますよ」と言い放った。
それをわかりやすく説明するのが経済学者でもある者の仕事ではないか。『経済ってそういうことだったのか会議 (日経ビジネス人文庫)』で行った佐藤雅彦とのチャレンジはなんだったのか。


前者の発言では政治家として失望し、後者の発言では経済学者として失望させられた。もう竹中平蔵にはなにも期待できない。