会津若松観光

このエントリーは、2006年GWの会津旅行の中で、会津若松の歴史や鶴ヶ城、街中の観光について紹介したものである。旅行全体のインデックスは、以下のリンクを参照。

会津旅行インデックス - フランシーヌの場合は

会津若松は古くからの城下町であり、ことに戊辰戦争時の白虎隊が有名で、これにまつわる史跡が市内に点在している。また、復元された鶴ヶ城も見ものである。

会津の歴史

ここで、Wikipediaや、後述するいくつかの本を元に、明治維新までの会津の歴史を簡単にまとめる。会津は史跡が多いため、観光にあたってはこのような歴史をすこしかじっておかなければ、なかなか楽しめないように思う。知らない土地の歴史を現地で一から学ぶのは、いささか大変である。逆を言うと、以下のようなちょっとした知識を得ておくと、現地でそれを補強してくれる材料を山と見出せる。これを学ぶのが実に楽しい。


室町時代から戦国時代に至るまで、会津は蘆名(あしな)氏の領国であった。その蘆名氏が領地争いを繰り広げていた相手に佐竹氏があり、これは岩明均の「雪の峠」(『雪の峠・剣の舞 (KCデラックス)』収録)で取り上げられている。作品には関ヶ原の合戦後、西軍についた佐竹氏が出羽(現在の秋田)に減封された後、そこ築城するにあたっての藩内の争いが描かれている。
蘆名氏は伊達政宗に滅ぼされる。この後が、その後豊臣秀吉の奥州仕置により会津を没収され、政宗による会津支配は1年で終わる。
この頃から、会津は天下人にとって北方からの侵略を防ぐ要所となる。北方からの脅威というのは、具体的には先に減封した伊達政宗を指す。これを防ぐため、会津と後に出てくる白河には信頼できる大名を置いた。


秀吉が政宗に変えて会津に封じたのが蒲生氏郷(がもううじさと)であり、この人物については司馬遼太郎の『街道をゆく〈33〉奥州白河・会津のみち、赤坂散歩 (朝日文芸文庫)』のP.161〜「市街に眠るびと」の章でも触れられるが、それによると会津に封ぜられる以前は伊勢松坂を持ち、そこを「小さな大坂」とすべく商業の発展に尽くした。会津に移ってからもその方針は変わらず、漆器や地酒、ロウソクなどの地域産業を発展させた。現在会津地場産業となっているこれらは、氏郷によって作られたといえるだろう。さらに会津城下町を「若松」と名づけたのも氏郷である。司馬氏は彼の辞世の句を見て感服している。以下がそれである。

限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風

残念ながら今回訪れることが出来なかったが、氏郷の墓は会津若松の街中にあり、駅から歩いて15分ほどで行ける。近くまでバスも出ているので、駅前のバス案内所で聞いてもよいだろう。


蒲生氏の子の代で家臣の失態が出て、蒲生氏は宇都宮に減封され、その後には上杉景勝(かげかつ)が入る。景勝は謙信の後を継ぎ、秀吉の天下取りの後は五大老の一人として仕えていた。景勝は執政の直江兼続(なおえ かねつぐ)に実務のほとんどを委ねており、語られるときもセットであることが多い。この二人については藤沢周平密謀(上) (新潮文庫)』で描かれているようだが、読んだことはない。僕はこの二人について、戦国無双のザコ武将としてしか知らなかった。戦国無双2では、兼続がプレイヤーキャラクターに格上げされている。景勝は関ヶ原後、家康によって米沢へ減封される。その後は関ヶ原にて東軍についた蒲生氏がまた入るものの、跡継ぎが続かず断絶する。


続いて、伊予松山藩主であった加藤嘉明(よしあきら)が入る。秀吉の配下、加藤清正らとともに活躍した戦国大名であったが、会津に入った頃はすでに老いていた。『街道をゆく〈33〉奥州白河・会津のみち、赤坂散歩 (朝日文芸文庫)』においては、P.57〜「江戸期の関守」の章、白河藩主の丹羽長重(にわながしげ)の話に登場する。白河はもともと会津の領地であったが、蒲生氏が途絶えた後、会津に加藤、白河に丹羽というふうに分けられた。長重は織田信長重臣で秀吉にも重く用いられていた丹羽長秀の息子で、父の死後は秀吉に勢力をそがれた。
前掲書に面白いエピソードがあり、前田利家の息子利長に私怨があった長重は、関ヶ原前には家康に会い、利長を討つのであれば自分に先陣をと申し出た。*1しかし関ヶ原では、利長は東軍についてしまい、長重は相対すべく西軍についた。戦は東軍が勝ち、長重も奮戦するも利長に敗れた後、利長は長重を家康の御前に連れてゆき、「この男は、私がきらいだっただけなんです」とフォローを入れたのだという。
結局長重は領地を没収され、一時期浪人となるものの、また大名に復帰し家康の信頼を得、ついには白河に入る。このとき長重は、同時期に入った加藤嘉明を大切にされよと忠告される。これを守ろうとした長重は、年長の嘉明を立てようと完成したばかりの城に招き、意見を伺った。嘉明はわずらわしく思ったのか、何も言うべきことはないとつれなかったという。
加藤氏による支配は二代目がお家騒動の末に領地を返上して終わる。


その後に入るのが保科正之(ほしなまさゆき)である。保科氏は後に松平性となり、以後幕末まで、江戸時代の長きに渡って藩主を務めた。初代の保科正之は二代将軍秀忠の隠し子である。藩政に当たっては、文武両道を推し進め、また朱子学を藩学とし、神道も学び、会津藩の気風を作り上げた。その象徴ともいえるのが「会津家訓十五箇条」で、第一条は以下のようになっている。

会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない。

まことに強烈であるが、以後これが藩としての性格となる。会津の産業を作り上げたのが蒲生氏なら、その精神は正之による。


この性格を受け継いだまま幕末の動乱に放り込まれたのが九代目の容保(かたもり)で、先に述べたような幕府への忠誠、さらに神の末裔として崇めている天皇への忠誠を一貫した。このため天皇からも信頼を得、天皇から会津を信頼している*2という旨の書状を賜っている。これは「御宸翰」(ごしんかん)と呼ばれ、このように天皇から直接書状を賜るというのは、前代未聞である。
そのような忠誠を貫いたため、戊辰戦争において賊軍の中心とされてしまい、会津は戦場となった。白虎隊の話もここである。
上記の正之、容保の話は、司馬遼太郎の『王城の護衛者 (講談社文庫 (し1-2))』による。『街道をゆく〈33〉奥州白河・会津のみち、赤坂散歩 (朝日文芸文庫)』でもP.172〜「会津藩」「幕末の会津藩」「容保記」と3章に渡り、多くのページが割かれている。戊辰戦争については『街道をゆく〈33〉奥州白河・会津のみち、赤坂散歩 (朝日文芸文庫)』のP.91〜「東西戦争」に話がある。

鶴ヶ城

上記の蘆名氏から松平容保まで、会津支配者の居城となったのが、この鶴ヶ城である。戊辰戦争で敗れた後は解体されており、現在の城は復元されたものだ。


城といえば、天守閣と呼ばれる雄々しい建築物を想像しがちだが、ここを歩くとそれは城の一部で、外を囲むお堀や城壁ややぐら、本丸を守る二の丸、さらに三の丸という場内の防衛線、そうしたものを含めたものが「城」なのだと説得される。
説得されながら城の大きさを実感として得ると、小説や映画、ゲームを通して知る攻城戦の様子がリアリティを帯びてくる。僕の場合は映画のロードオブザリングと、ゲームの戦国無双のイメージによるので和洋のイメージが入り混じるのだが、たとえばこの橋は戦時には外され、攻める側はそこに橋をかけようとし、守る側はそれをやぐらから狙い打つのだろうなとか、この硬い城門は破城槌をもってしても破るのは困難だろうとか、そこを破って二の丸に騎馬がなだれ込んでくるのだろうとか、そのようなことが自然と想像させられる。


建築物として再現されているのは天守閣とひとつのやぐら、そしてそれを結ぶ長屋やその下に設けられている鉄門などである。外観は美しいものの内部の建築は現代のそれになっており、その意味では見るべきところはない。
天守閣内は博物館となっており、前述の蘆名氏から松平氏へ至る会津の歴史、それに名産品などがきれいに展示されている。特に松平容保の頃、幕末から戊辰戦争のあたりが詳細で、白虎隊、日新館の資料もあり、会津の性格を伝えていた。会津の歴史を学ぶ上で、城のリアリティが実感的な補強であるとすれば、こちらの博物館は知識的な補強である。
とはいえ、ここにもいくつか歴史にまつわる実物やレプリカがあり、実感的な補強もされる。特に会津家訓十五箇条と御宸翰の写しを見られたのはよかった。両方とも漢文のようで、はっきりと読めないものの、ぼんやりとした意味ならつかめる。御宸翰の方は、容保が竹筒に入れて首から下げ、着物もその上から着るというようにして、死ぬまで肌身離さず持っていたというエピソードがある。家臣の誰もがそれが何か聞けず、死後開けてみて驚いたそうだ。それを踏まえて見ると感動すら沸く。


城の近くには「武徳殿」という武道場があり、この日は男女入り混じって薙刀の稽古をしていた。この様子が会津藩のイメージと重なり、良いものを見たという気になった。観光としての意図があるかどうかはわからないが、粋な演出である。


会津旅行 会津若松 鶴ヶ城 天守閣外観 01
鶴ヶ城 天守閣外観


会津旅行 会津若松 鶴ヶ城 天守閣から 01
鶴ヶ城 天守閣から走り長屋を見る


会津旅行 会津若松 鶴ヶ城 薙刀の稽古 付近の武道場にて
鶴ヶ城そば武徳殿 薙刀の練習

會津壹番館

会陽医院という古い病院の蔵を改築して作られたカフェで、二階は野口英世青春館となっている。会陽医院は、野口英世が手の手術を受けた病院だそうだ。
外観の古さは言うまでもないが、その内装も期待にたがわずレトロで、よい雰囲気である。
平成12年には皇太子ご夫妻もここにおいでになり、野口英世ゆかりのペルー産コーヒーをお飲みになられたそうである。
ぼくらはケーキセットを二つ頼んだ。コーヒーはマイルドブレンドを頂いたが、酸味がなく、苦みもあとからじわりとくる。ケーキはそれぞれカボチャプリンとレアチョコレートケーキを頼んだ。それに抹茶のアイスがついて来る。どれも美味しい。

このカフェは、会津若松、七日町どちらの駅からも歩いて15分ほどの所にある。鶴ヶ城からも同程度の距離だ。
店のある野口英世青春通りと、そこから七日町駅へと向かう七日町通りには観光名所が多い。前出の蒲生氏郷の墓もこの近くにある。旧観を残す建物も多いが点在しており、町並み自体がよい景観となっているわけではない。その点、函館には劣る。

七日町駅のすぐそばに新撰組斎藤一の墓がある。これはあとで知って悔しい思いをした。蒲生氏郷の墓も行き逃した。こちらも悔しい。


会津旅行 会津若松 カフェ「會津壹番館」 外観
會津壹番館 外観


会津旅行 会津若松 カフェ「會津壹番館」 店内 01
會津壹番館 店内


会津旅行 会津若松 カフェ「會津壹番館」 ケーキセット 01
會津壹番館 ケーキセット

*1:関ヶ原の前、利長を首謀者とする家康暗殺のうわさがあり、家康がそれを口実に前田征伐を計画した。

*2:他は信用できない