『中国女 完全版 [DVD]』(ジャン・リュック・ゴダール)の感想

ジャン・リュック・ゴダールの『中国女』を見た。中国共産主義に傾倒する5人の若者を描いた作品である。ゴダールが商業主義から脱却した最初と言われている。
舞台は広いアパートの一室がほとんどで、彼らはそこを基地として、寝起きし、勉強し、議論する。ほとんどのカットに、共産主義の赤の他、青と白を合わせた3色が配されている。これは彼らが、自らを憂国の士と捉えているということだろうか。残念ながら、フランスにおいてトリコロールがどのような意味合いを持っているのか、知らない。


映画のほとんどが、彼らの演説、対話の場面で構成されているのだが、その話が抽象的で難しい。そこに加えて映画の構成も難解で、例えば彼らがインタビューに応えるシーンが多くあるのだが、ときたまそのインタビューを映すカメラが映画の中にもあらわれ、さらにカメラマンが問いかけたりもする。このとき、カメラとカメラマンは映画の中の人物なのか、この映画を撮影するゴダールのクルーなのかわからない。


僕はこの作品を高専の頃に一度見たことがあるが、当時はこの難解さによって否応なく寝てしまった。だから当時の感想も、難しい映画だなあ、である。改めてこの映画を見るにあたって、共産主義新自由主義などについての知識がほんの少しだけついた今なら、退屈にならずに見ていられるかもしれないという期待もあった。


さて、見てみて実際どうだったかと言えば、退屈さは感じなかった。というのも、彼らの話が、ただ言葉をもてあそんでいるに過ぎない、というように捉えられたからである。本当にわかってしゃべってんの?ということだ。
そのように見ると、この映画は青春映画だと言える。
司馬遼太郎は「青春というのは、ひまで、ときに死ぬほど退屈で、しかもエネルギッシュで、こまったことにそのエネルギーを知恵が支配していない」と書いた(『新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)』P.181』)が、これほど青春というものを的確に表現した文章もあるまい。この映画に描かれている若者も、その青春のエネルギーをもてあまし、発揮する方向を求めたところ、共産主義に行きついた。彼らは文化大革命を成し遂げた中国の「熱」を羨望を持って見つめ、自らのエネルギーを発揮するところとして革命運動を発見した。


であれば、一向に具体性を帯びない不毛な議論や、現状の体制に対する過剰なまでの怒りも、微笑ましいものとして映る。このような「革命ゴッコ」であれば、日本でも経験者がいるはずだ。特に、1960年代の学生運動を経た社会人には、その割合が大きいであろう。
大多数の人間にとって、この種の経験は、若気の至りとして記憶される。「あの時は若かった」という飲み屋話になる。映画は、この青春の終焉までを描いて終わる。2人の姉にたしなめられるベロニカは、何やら気恥ずかしそうであった。


中国女 完全版 [DVD]

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