自分の音楽史を振り返る。

僕が産まれてから24年と5ヶ月程たった。そんな何の節目でもない日に、自分の音楽史を少し振り返ってみようと思う。偉そうに書いているが、基本的に恥ずかしい話なので、そのような心持ちで読んでいただきたい。

音楽的基盤の形成 − 幼少時代(保育所卒業以前)

吉幾三この時期は自分から音楽を聞こうとすることはほとんどなかったと思われる。音楽に対して受動的であった。聞く場としては車の中ばかりだった。家の中で音楽を聴く習慣は、我が家にはなかった。当時のカーオーディオはカセットテープで、車の中には10数本のテープがあった。
堀内孝雄車の中で何を聞くかは運転する父親が決めた。そのころ父親は2本のテープしか聞かなかった。吉幾三のテープと、A面が吉幾三、B面がベーやん(堀内孝雄)のテープである。僕の幼少時代の音楽経験は、この日本の音楽界に今なお悠然と君臨する二人の巨人によって形作られた。


例外的に、自分から音楽を聴きたがる場面もあった。うちにはアニメのテープが1本あり、車ではそれをかけてくれとせがんだが、それほどかけてもらえた事はなかった。そのテープは1985年あたりに発売されたものだと思われる。収録内容を思い出してみる。

gunmo大半が見たこともない作品だった。ガンモの少しエロティックな歌詞をドキドキしながら聴いたのを覚えている。
余談だが、高専の頃にこのテープを発掘した。テープは途中で切れていたがセロテープでつないで回るようにし、MDに録り直した記憶がある。しかしそのMDがどこにいったかわからない。

2006/02/01 追記


もう1つ、好んで聴きたがったテープがあったのを思い出した。それは小玉進「五城目のトメ」という漫談のテープで、トメさんのドジなお話をギターの音色にのせて(たまにポロロンと鳴る)語るというものだった。例えば、以下のような具合である。


(以下、全部小玉進の声、秋田弁で)
秋田に出て来たトメさん、ミスタードーナツっちゅうところに入った。
トメ「ドーナツの、あれと、これと、それください」
店員「お客様、あれとかこれとかではわかりませんので、名前を教えてください」
トメ「五城目の、トメでーす」


面白さは伝わらないと思う。もう1つ、国保病院に着いたトメさんのギャグ。


トメ「国保でなくて、健保にしてけろ!」


やはり面白さは伝わっていないと思うし、今聞いても面白いと思えるかどうかわからないが、当時はこれが好きで何度も何度も聞いていた。
さすがにこれの情報はネットにはないだろうと思ったが、なんとまだテープが買えるお店を発見した。是非ほしい。
五城目のトメさん:細川レコード(秋田県)

追記終わり

僕らの文化の始まり − 小学校低学年時代

たま何年生の頃だったかは不明だが、初めて自分の友人間で音楽ブームが起こった。たまである。友人の成田君がたまの「さんだる」をテープで持っていた。成田君はそれをどこにでも持っていってかけていたようで、記憶の中ではいろいろな友達のうちでその曲を聴いた覚えがある。もしかしたらみんな成田君からダビングさせてもらっていたのかもしれない。確か僕もダビングさせてもらった。
夕焼けの強い日差しが差し込む家の中、友人の誰かが「高橋名人の冒険島」をプレイし、僕はそれを眺めながらたまの「さんだる」を聴いている。このイメージが、「僕ら世代のカルチャー」の原風景として焼きついている。


その後ダビングしてもらった「さんだる」をおばあちゃんの家で聴いていると、はっぽうえん(漢字が不明、向かいのラーメン屋さん)のおばさんが「オゾンのダンス」を指して、「ずいぶんいやらしい歌だね」といい、僕はなにがいやらしいのかも良くわからないまま恥ずかしくなり、なにも答えられなかった。はっぽうえんのおばさんからは、息子のお下がりだと大量のキン消しをもらったりもした。はっぽうえんのラーメンは美味くて好物だった。中学卒業前に別の店になったが、今どうなっているのかはわからない。
話がそれた。


たまの「さんだる」は高専時代に先輩からCDを譲ってもらい、時々聞いていた。大学時代には偶然タワレコのインストアライブを見て良さを再認識し、その後ワンマンライブにも行った。解散した今もなお、変わらず好きなバンドである。

ロックが幕を開けた青春 − 小学校高学年−中学生時代

初めてCDプレーヤーを買ってもらい、初めてCDを買ったのが小学4年生のときだった。買ってもらったプレーヤーはCDダブルラジカセだった。どういう経緯でCDプレーヤーを買ってもらったのかは忘れた。


Bz初めて買ったCDはB'zの「愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない」で、これは初めて買ったCDが最長タイトルになるかと思ったが、以下のサイトでランキングを見たところこのタイトルは25文字で85位(タイ)だったので、今後さらに長いタイトルの曲を買う可能性が高いことが判明した。サンボマスターが有力候補だ。

名前の長い曲ランキング

CDプレーヤーを買った当初は、それまでSDガンダムにばかり使っていた(元祖SDガンダム、ガチャポン、カードダスなど)お小遣いをCDにまわすようになり、ミュージックステーションのランキングで上のタイトルを買った。以下、当時買ったCDを思い出せるだけ書き出してみる。

ビーイング系にTUBEが混じっているところに、当時の混乱が見て取れる。このように、演歌からJ-POPへの移行は困惑を伴って行われた。当初は流行っている曲は何でもイカスと思い、自分をそこに合わせるために何でも聴いていたが、すぐにその過渡期は去り、B'zしか買わなくなった。


稲葉浩志初めて買ったアルバムもB'zの「The 7th Blues」で、2枚組み5000円もした。当時聞いていた曲と比べてキャッチーさに欠け、それほど好きになれなかった。その後の「Loose」の方がキャッチーで聴きやすく、よく聴いていた。
すこし先に時代が飛ぶが、B'zがらみの話をここでまとめてしまう。
The 7th Blues」の良さがわかってきたのは高専に入ってからだった。この頃よく聴いていたB'zのアルバムは「The 7th Blues」と稲葉浩志のソロアルバム「マグマ」、松本孝弘のソロアルバム「KNOCKIN'“T”AROUND」だった。「KNOCKIN'“T”AROUND」に収録されていた曲は、たまに元曲で耳にすることがあり(ジャニスとか)、そのときはこちょばい感覚を覚える。
松本孝弘洋楽への憧れは、「Real Thing Shakes」を聴いて生まれた。当時は洋楽と日本人の歌う英語の歌という区別もできず、B'zが洋楽をやっていてすごいと思っていた。
B'zは高専の3年のころまでずっと聴いていた。アルバムは「Brotherhood」まで買っていたが、このアルバムはそれほど聴かなかった。
冬に実家の子供部屋で、一人で「FRIENDS2」を聞くのが好きだった。

サブカルチャーへの入り口 − 中学終盤

林原めぐみエヴァについて書いていたら音楽とは関係ない話が長くなってしまったのでやめた。要するに、エヴァンゲリオンにハマって、その流れで声優にハマり、林原めぐみ緒方恵美のCDを何枚か買ったのだ。この時期はじめて、人とは違うものを好む習性が音楽面で顔を出し、学校ではキモヲタとなった。
学校の廊下でアニメソングを歌う僕はさぞ気持ち悪かっただろうと思う。中学時代、僕は多数の同級生とよい人間関係を築くことができず、学校生活が好きではなかった。高専への入学が決まり、中学の同級生が誰一人いない学校に行くことになった時、友人と別れることよりも、その他の人間関係から解放されるうれしさが勝り、今の人間関係なんてどうでもいいんだという捨て鉢な気分からの行動だったとも言える。周りに取っては厄介な話である。

より激しく − 高専初頭

声優ブームは中学で終わった。もともと稚拙な音楽だったので、長く続かないのも必然である。
音楽的な嗜好はまたもB'zに向いていたが、メジャーであるという一点で不満であった。洋楽に対する憧れも培われていた。しかし、試にと聴いてみたBon Joviエアロスミスは、かっこよさは伝わるものの、聴いていると飽きてしまい、ジレンマを持ちながらもB'zに戻ってしまった。
カイ・ハンセンそんなジレンマから僕を救ってくれたのが、高専の寮生の西村君で、ジャーマンメタルバンド、GAMMARAYの「land of the free」を貸してくれた。ハードロックバンド以上のキャッチーさがあった。曲展開があまりにもドラマティックで聴いていて飽きなかった。
これでようやく洋楽を聴けるようになったと喜んだ僕は、GAMMARAYHELLOWEENMEGADETHMETALLICA、そしてオジー・オズボーンといったあたりのメタル系のアーティストを沢山聞いた。ちょうどCDをレンタルしてMDに録れば安く上がることを知ったばかりだったので、レンタルでそのような類のCDを沢山借りては録音した。レンタルにあるメタル系などたかが知れているので、それ以外にもすこしでも興味のあるJ-POPのCDも沢山借りた。サザンやドリカム、ユーミンなどである。しかしそれらの曲は、当時もあまり聴かなかった。


山崎まさよしもうひとつ、この時期同時に山崎まさよしが好きになり「HOME」を何度も聴いた。家に一人のときはよく歌った。どのような経緯で知ったのか、他の曲とはちがい明確なきっかけはない。また、山崎まさよしは、恥ずかしさを伴わずに、昔好きだったといえるアーティストであり、きっと今「HOME」を流しても気持ちよく歌えると思う。


このように、この時期はJ-POPからは完全に離れたように見えるが、実はそんなことはない。
ラルク高専1年の頃、エレキギターを買った。そこで練習したのは、L'Arc-en-Ciel(以下ラルクと略す)の「Round and Round」で、曲の始めのギターソロだけ弾けるようになったくらいで挫折した。ZIGGYの曲も練習していた。練習している頃は歌本も買い、知っている曲でコードが簡単な曲であればなんでも弾いていた。
ラルクの曲は格好よいと思っていた。当時はゴシックという言葉もなかったように記憶している。その怪しい雰囲気が独特で格好よいと思っていた。
ラルクが良いと思う理由がもうひとつある。それはるろうに剣心のエンディングアニメで、僕はそこで音楽と映像の融合による快感を味わった。曲は「the Forth Avenue Cafe」だった。エンディングが変わった直後、ドラムのsakuraが覚醒剤取締法違反で逮捕され、このアニメと曲の組み合わせは数回しか放送されなかった。
またエヴァの話で恐縮だが、僕はエヴァのオープニングで、同様の感覚を初めて得た。すでに表現されているものにもかかわらず、僕はここに新しい表現の可能性を見出し、これは後にVJを目指すきっかけにもなった。

本当のロックを求めて − 高専時代後半

tmge01高専の同級生の伊藤君に、知り合いのライブに連れて行ってもらった。ライブといっても全部いす席ですり鉢上になっているコンサートホールのような場所で客席もまばら、出演もコピーバンドが何組か出る程度のライブであった。その際に見たのは、曲の合間にやたらと謝るThe Yellow Monkeyコピーバンドと、thee michelle gun elephant(以降ミッシェルと略す)のコピーバンドだった。


tmge03このときは特に何も思わずにいたが、その後深夜のテレビを見ている際にまたミッシェルとの出会いがあった。それはGWDのPVで、ものすごく格好よいと思った。想像を超えるロックスター像がそこに現れ、僕はすぐにのめり込んだ。ここでロックスター像と書いたが、僕が好きになったのはアルバム「GEAR BLUSE」以降で、その時期以降のミッシェルは、ファンの期待に応えるためのロックスター像を創ること、ロックスターとして役割を完遂することに必死だった。ロックスターという様式美を強く意識していた。今振り返るとそのように見える。
また話が横にそれた。


tmge02ミッシェルにはまると今まで聞いていた音楽がどれもチンケなものに思えた。そしてミッシェルあたりの音楽をもっと聴きたいと思うようになった。また、ライブに行ってみたいという思いもはじめて起こった。
良い出会いはタイミングよく続くもので、その頃定期購読していた「プレイボーイ」誌で、夏フェスの特集が組まれていた。そこにはRISING SUN ROCK FESTIVAL(以下RSRと略す)の情報があり、ミッシェルやそのあたりのバンドが多数出演する、オールナイトのフェスであることが書かれていた。
渡りに船とばかりに伊藤君を誘ってチケットを購入した。伊藤君は電気グルーヴのファンなので快諾してくれた。


第一回目のRSRはステージもひとつで、時間も昼から翌朝まで、出るバンドも厳選されていた印象がある。確認のため以下に出演バンドを挙げる。

思った以上に良いメンツで驚いた。これが今のようにJ-POPのアーティストばかり出演するフェスになるのだからわからないものである。


ここではじめて体験したミッシェルのライブが本当に格好よく、これ以降の邦楽ロックへの傾倒を決定付けた。


Blankey Jet Cityここでもうひとつ触れておかなければならないバンドに、BLANKEY JET CITY(以下ブランキーと略す)がある。これもミッシェルと同時期に好きになったバンドなのだが、これはまた別のきっかけで、漫画「多重人格探偵サイコ」のなかでこのバンドの「水色」という曲が使われており、当時この漫画にハマってマダラなどに触手を伸ばしていた僕は、その流れでこの曲が入ったベスト「国境線上の蟻」にも手を出した。
このアルバムは、当時それほど良いとは思わなかったが、もう一枚借りた「ロメオの心臓」がとても格好よくて好きになった。
RSRでは知らない曲が多く、あまり盛り上がれなかったことを覚えている。あれは本当にもったいなかった。


その後はRSRの出演者やRock'in on JAPANなどを参考に、邦楽ロック(J-ROCK?)の曲ばかりを聴いていた。札幌の大学に進学した加賀屋君と一緒に、ミッシェルやfra-foaのライブに行った。邦楽ロックには未知なる良質なバンドがあふれ、僕はその世界を広げるのに夢中になっていた。

邦楽ロックの終焉と、ニューロックの幕開け − 大学時代

少しわかりにくいので解説しておくと、高専は5年制で、中学卒業後に入る学校だ。後半2年間は短大にあたる。そこから大学に入る場合、3年次編入となる。つまり、僕の大学時代は、3,4年の2年間だ。


僕がRSRに始めて赴いた1999年こそ、邦楽ロックのピークではなかったかと思う。それ以降に現れた新人で、良いバンドが目に付かない。ブランキーやミッシェルが解散して以降、そういったバンドを探そうという気力が失せてしまった方に原因があるかもしれないが、とにかく邦楽には徐々に失望していった。


strokesそうして興味は同時期に台頭してきたニューロックに移った。僕もご多分に漏れずSTROKESの「IS THIS IS」に緩やかな衝撃を受けた。緩やかな、としたのはミッシェルに受けた衝撃と比較してである。その後White StripesRaptureに強烈な衝撃を受けることになる。
STROKESを聞いた当初の感想は、格好がよいし聴きやすいというものであった。これをきっかけにニューロックへのめりこむということはなく、相変わらず邦楽にしがみついて、MO'SOME TONEBENDERやTHE BACK HORN怒髪天などを好んで聴いていた。


ニューロックに傾き始めたのは、大学4年の頭から同棲を始めた恋人の影響だ。同棲を始める前からインターネットでやり取りをしており、そこで情報をもらってCDを買ったりしていたが、同棲を始めてからは彼女の趣味でCDをかけることが多くなり、ニューロック以外の洋楽にも耳が慣れた。


ただ、これは演歌に対してと同じく受動的な態度であった。自分から洋楽に向かう態度になったのはロック史を少し勉強しようと思った大学4年の夏休みの頃だった。
Elvisロック史がまとめてあるHPを探し、そこで時代を代表するとして挙げられているアーティストの代表曲を片っ端から聴いた。プレスリーからRadioheadまでである。時代を代表したアーティストの代表曲だからどれも聴いたことのある名曲で、これは楽しい作業だった。集めた曲をまとめて1枚のCDにして楽しんだりもした。
そうしてなんとなく洋楽ロックの全体像をつかみ、そのなかにニューロックも位置づけることができた。


その後、興味がロックから外に広がって今に至るのだが、そのあたりは直近のことなので、また寝かせてから書こうと思う。