ホワイトバンドから派生して、色々思ったことをつらつらと

PCのデスクトップを整理していたら、掲題のメモが出てきた。おそらく1,2ヶ月ほど前のものだと思われるが、言いたいことは今とさほど変わっていないので、少し修正して投稿することにした。以下がその内容。
先に断っておくと、寄付にならないことへの批判については触れていない。

1.

「私にはこんなことくらいしかできませんが」は、
「私はこんなことしかするつもりはありません」 だ。

ということを書いておられる方がいた。とても的確だと思った。

2.

「しない善よりする偽善」は、日本人のもつ意味のないニヒリズムが原因で現われた、とてもねじれた表現だと思う。

善いことはしたいけれども、善いことをするのが恥ずかしい。このダブルバインド(違うレベルの概念が矛盾を起こしている状態)を回避するために、ただ言葉として「偽善」を用いる。そうすることで、自分は善いことをしていないと言いながら、善いことができるようになる。

こんなにこんがらがった表現になっているのは、善いことをするのが恥ずかしいという感情のせいだ。この感情は、ほとんどの日本人が持っているのではないかと思うし、かく言う僕もそんな感情を抱いている。なぜなんだろう。

3.

「世界には食べたくても食べられない、飢えた人達が沢山いるんだ。与えられた食事を残すなんて、その人達に申し訳ないと思わないか。だから、全部食べなさい」

そんなことを言いながら、飢えた人達のために何もしない大人を見て育った子供は、飢えた人たちが沢山いるという現実を、そういうものだ、しかたないものだと思わせてしまったのではないか。

世界がもし100人の村だったらも同じ。もともとは、普段あまり意識しない、戦争、貧困に苦しむ人々について、同じ地球に住む人間の問題として捉えようという内容だったが、日本では、自分が恵まれていることを確認するための文章に書き換えられて流行ったことを、まだ覚えているだろうか。
よく言えば「足るを知る」話ではあるのだが、ここでも飢えた人たちは比較対象にされるだけだ。

100人の内の50人が栄養失調であると知ったとき、「ありがたいなあ、幸せだなあ」と思うことは、貧富の差がある世界を肯定していることと同じだ。世界はそういうものなんだから、その中で割と恵まれている自分は運がいいと思っているのだ。

そう思うのは、本心なのかもしれないが、恥ずかしい感情だ。隠しこそすれ、おおやけに発表できるものでは決して無い。

それが受け入れられ、あまつさえ感動を与えたのはなぜだろうと考えた。日本人はバカなんじゃないかとも考えた。が、みんなもう忘れているということは、読む側の姿勢もその程度のものだったということだろう。要するに、心に残らない、わかりやすい感動として、消費されたのだ。

それはそれとして、ドネラ・メドウズの「もし世界が1000人の村だったら」は、今読んでも貧困問題の啓発にもってこいの素晴らしい文章なので、ここに転載する。これを読んで、自分は幸せだと思うだろうか。それとも、酷い世界を目の前に無力感を覚えるだろうか。世界を変えたいと思うだろうか。

もし世界が1000人の村だったら


村の状態のレポート

もし世界が1000人の村だとしたら

584人がアジア人

123人がアフリカ人

95人が東西ヨーロッパ人

84人がラテンアメリカ

55人がソビエト人(とりあえずリトアニア・ラトヴィア・エストニアなどを含む)

52人が北アメリカ人

6人がオーストラリア人とニュージーランド


村の人々の意思疎通はかなり困難だ。

165人が中国普通話を話す

86人が英語を話す

83人がヒンディー語ウルドゥー語

64人がスペイン語

58人がロシア語

37人がアラビア語

このリストでは村の半分の人の母国語しか載っていない。

残りの半分は(多い順に)

ベンガル語ポルトガル語インドネシア語、日本語、ドイツ語、

フランス語、その他200語が話されている。


その村のうち……

300人がキリスト教徒(183人がカトリック、84人がプロテスタント、33人が正教会

175人がイスラム教徒

128人がヒンドゥー教徒

55人が仏教徒

47人がアニミスト

210人が残りの宗教(無神論者を含む)


村の3分の1(330人)は子供。子供たちの半分だけが、

はしかや小児まひのような予防可能な伝染病に対して免疫がある。

1000人の村人のうち60人が65歳以上。

既婚女性の半分以下しか、近代的な避妊具を入手・使用できない。

毎年28人の赤ん坊が生まれる。

毎年10人が死に、そのうち3人が食糧不足で、1人がガンで死ぬ。

死者のうち 二人は生まれて1年以内の赤ん坊だ。

村の1人はHIVウイルスに感染している。

その人はまだエイズの末期症状にまでは至っていないだろう。

28人が出生し、10人が死亡するので、翌年の村の人口は1018人になる。


この1000人の共同体で、200人が収入の4分の3を手にしている。

別の200人は収入の2%しか手にしない。

70人だけが自動車を持っている(そのうち数人は複数の車を持っている)。

約3分の1の人は、きれいで安全な飲み水を入手できない。

村の670人の成人のうち、2分の1が文盲。


村は一人あたり6エーカー(2.4ヘクタール)の土地を持っている。

全部で6000エーカー(2400ヘクタール)の土地のうち、

700エーカー(280ヘクタール)が耕作地

1400エーカー(560ヘクタール)が牧草地

1900エーカー(760ヘクタール)が森林地帯

2000エーカー(800ヘクタール)が砂漠、ツンドラ、舗装その他の不毛地帯

森林地帯は急速に減少している。不毛地帯は増えている。

残りの土地分類はおおむね安定している。

村は肥料の83%を耕作地の40%に投入する――

それは最も豊かで最もよく食べている人たちが所有している。

この土地から流れ去る過大な肥料が湖と井戸に汚染を起こす。

肥料の残り17%を割り当てられた60%の残りの土地は、

穀物の28%を生産し、73%の人々を養うことになる。

その土地の上の平均穀物産出は、

金持ちの村人たちが得た産出量の3分の1である。


もし世界が1000人の村であったなら、5人の軍人、7人の教師、

1人の医者がいるだろう。毎年300万ドル以上の村の歳出予算のうち、

18万1000ドルが武器と戦争に、15万9000ドルが教育に、

13万2000ドルが健康管理に使われている。


村はその地下に、村を何度も吹き飛ばしてしまうのに十分な破壊力を持つ核兵器を埋めている。

これらの武器はちょうど100人の制御下にある。

他の900人は、その100人がうまくやっていけるかどうか、

もしうまくやっていったとしても、その武器を不注意や技術的失敗で

爆発させないかどうか、また武器を廃棄することに決まったとしても、

その兵器から生まれる危険な放射性物質を村のどこで処分するのかを

心配して、深い不安を抱いて眺めている。

1990年5月31日号『世界市民』(Global Citizen

ドネラ・メドウズ