写真を撮るつもりで歩く。

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今日の帰り道、上記の記事のようなことを考えながら、ふと思い出した話がある。


それは恋人の友人の話だ。彼女は写真部に属していて、旅先の写真を撮るのが好きだった。あるとき写真部に天才の子が入った。この子は写真以外でも素晴らしい才能を発揮したそうだ。天才の子は彼女の写真を見ると、彼女に対して学校内の写真を撮ってくるように勧めた。言われた通り学校内の写真を撮って、現像して天才の子に見せると、天才の子はその写真を旅行先の写真と比較して、「ほら、こっちのほうがとてもいい写真だよ」と言ったそうである。


一度聞いただけの話だから、細部は違っているかもしれない。僕はこの話を、見慣れているものの方が、そのよいところ、美しいところを知っているから、よい写真が撮れるのだ、というように解釈した。
そんな話を思い出したのは、通勤中も写真が撮れたらいいのだが、特に朝はそんな余裕はないな、と思ったからで、しかしその話を思い出すと、せめて帰宅時だけでも撮れるといいなと思った。
僕はデジカメを持っていないし、掲題電話も古いので鑑賞に堪えうる写真は撮れない。しかし気持ちだけでも写真を撮るつもりで歩いてみた。


想像以上の視界の広がりに驚いた。いきなり別の場所に来てしまったような感覚で、戸惑った。その新鮮さが楽しかった。周りの風景は見慣れているとはいえ、改めて見ると面白い。そして見慣れているからこそ、新たな発見というのが多い。ここはこんなに空が開けているのか、とか、ここの空き地はよい空間だな、とか、あんなところに店があったのか、とか。やはりカメラを持っていると楽しそうだ。


また、普段、無意識に下を向いて歩いていることに気がついた。僕は普段、自分の数歩先の道路を見て歩いている。荻窪は活気があってよい街だが、慣れてしまうとあまり見なくなっていた。見ないでも駅までは行けるし、家にもたどり着ける。ここのところは寒いので、マフラーに顔を埋めてしまうことも多い。そうして下を見て歩くようになっていた。
慣れというのは恐ろしいもので、ちょっと意識を緩めると、またすぐに下を向いてしまう。姿勢も悪くなるし、悪いことばかりである。


デジカメを買う前に、まずは写真を撮るつもりで歩こうと思った。