寿・神田京子二つ目昇進祝いの会『キョウコラボ』

講談師・神田京子さんと、バンド・スキップカウズのイマヤスさん、遠藤さんのコラボレーション公演、『キョウコラボ』を見に、新宿のプーク人形劇場に行きました。講談は一度、ANAの飛行機の中で聞いたことがあるだけでした。確かそのときは、忠臣蔵の47士のひとりが、討ち入り前に兄の家を訪ね、玄関先で一杯やるという話だったと思います。他にはNHKにほんごであそぼ』で神田山陽さんを見ていたくらいです。また、スキップカウズは、名前を知っている程度で、どんな音楽をやるのかは全く知りませんでした。

着いて早々、劇場の看板のかわいらしさに心を奪われました。他にも、郵便受けや、貼ってあるポスターがいちいちかわいらしい。そしてなんといっても、その劇場がかわいらしい。暖かみがあり、洗練されておらず、ほんのすこし恐ろしさの残る、童話のような空間になっていました。舞台の幕にはわら人形が楽しく遊んでいる絵が描かれていたのですが、それが違和感なく存在している空間でした。

公演は3部に分かれており、1部は神田京子さんの講談、2部はスキップカウズのお二人のアコースティックライブ、休憩を挟んで3部は、講談と音楽のコラボレーションとなっておりました。


まずは第一部の講談。セリから登場した神田京子さんは、黒の着物に赤い眼鏡、頭には黄金のティアラという出で立ちで、すでにおもしろい空気を身にまとっておられました。お話の方は、講談界のシステムから、前座時代の苦労話、スキップカウズとの出会い、講談のイロハ、二つ目昇進後の活動、最近出演した舞台での恋愛話など、自己紹介のような内容をおもしろおかしく語られていました。僕は、こういうアドリブのお笑いも講談なのかと思っていましたが、これは枕と呼ばれる前説のようなものなのだそうです。キョウコラボへの道によると、この枕で持ち時間を使い切ってしまうほど、長い枕だったようです。
さて、本編の講談は、素人にも「これが講談だ!」とわかりやすいものということで『巴御前』。源平の時代の女武者のお話です。夫の軍の不利な戦況の中、自ら進んで戦場の渦中に身を投じ、バッタバッタと敵をなぎ払う、というお話で、落ちにはエキセントリックな笑いが待っておりました。たぶん神田京子さん流のお笑いにアレンジされていたのだと思いますが、元の話を知らないのでどこからがアレンジなのかがわかりませんでした。滑らかな語りから、巴御前の華麗な長刀さばきが目に浮かぶようでした。


第二部、スキップカウズのお二人。会場の音響がかなり悪く、カラオケのようなバランスでの演奏という、かわいそうな状況でのライブとなってしまいました。狭い会場ですからいっそ生音でも良かったのではないかと思いますが、そんなこと今から言ってもしょうがありません。それで、初めて聞く曲の印象ですが、まず90年代のJ-POPっぽい音でした。アコースティックだからか、バラードのような曲が多いように感じました。
スキップカウズには関係ないのですが、こう感じたとき、そもそもバラードとは何かわからない事に気づきました。曲ごとにバラードかそうでないかは感覚的に判別していたのですが、ではバラードとは何かと聞かれると答えられない。例えるなら、シェパードやダックスフントは犬だとわかるが、犬とは何かを答えられない状態だったのです。そこで、先ほどWikipediaで確認してみたところ、「ひとつの物語、たとえばある恋の顛末といったような物語めいた歌詞をもつ、哀愁の漂うような傾向の音楽を指す。」とのこと。そしてクラシックから歌謡曲までを貫く、オーバージャンルの概念だそうです。ひとつ賢くなりました。
話を元に戻しますと、スキップカウズのお二人の曲は、恋愛の一場面を描いた、ポップだったり哀愁漂ったりするようなものでした。ボーカルの方はハスキーボイスの割に音域が広く感じました。好みは分かれそうですが、ハマる人は相当好きになりそうな声だと思います。ギターの人は特筆すべきことは無いように感じましたが、あの音響ではしようがないかもしれません。総じて、あまり好きではありませんでした。
曲間のトークは、ラジオ慣れしているからでしょうか。ミュージシャンとは思えない(かといって、お笑い芸人とも思えない)面白さでした。そのトーク友近のネタを素でやっているかのようなものだったので、さらに面白かったです。


そして最後、お三方のコラボレーション。演目は『牡丹燈篭』というお話だったようです。コラボレーションのスタイルとしては、講談の間に、その場面にあった曲を短めに入れるという形。ラジオドラマ(NHKの名曲スケッチの後にやっていたようなもの)と同じような形で行われました。
お話のあらすじを簡単に説明します。ある裕福な浪人の家に、その浪人が思いを寄せる女性が訪ねてくるようになります。しかし浪人は近所の人相見から、その女性は既に他界しており、訪ねてきているのはその女性の幽霊である事を知らされます。浪人は家中にお札を貼り幽霊を家に入れません。幽霊は困り、近くに住む浪人の家来にお札をはがすよう頼みます。家来ははがす代わりに金を要求し、幽霊はそのお金を用意します。家来は約束通り高窓のお札を一枚はがし、幽霊はそこから浪人宅に侵入。翌日人相見が様子を見に行くと、そこにふたり分の白骨がありました。
このような怪談話です。あらすじだけ書き出してみると、本当に怖いだけの怪談話のように見えますが、この舞台ではその怖さの陰に隠れがちな、叶わぬ恋という側面を大きく浮かび上がらせておりました。侵入してきた幽霊を拒絶しながらも心惹かれ、最終的には幽霊の方へ気持ちが向かい、翌朝寄り添った白骨として発見されるという、『嗤う伊右衛門』を思わせる切ないオチなど、神田京子さん流のアレンジだったのでしょう。そして、そのようなイメージづくりに力を貸していたのが、スキップカウズのお二人の曲だったように思います。彼らの曲は、僕には普通のJ-POPのように聞こえたのですが、その普通さが、怪談を普通の恋として見せたのだと思います。


全体を通して、講談初体験の僕にとって衝撃だったのは、神田京子さんの表現力でした。先の『巴御前』でもそうでしたが、話を聞いているだけで、がんばらなくても情景が頭の中に思い浮かぶのです。それに女中とお露の演じ分け。それほど大きく表情を変えていないにもかかわらず、全く別人の顔に見えました。
この表現力は、伝統芸能ならではなのではないかと思いました。歴史が長いという事は、それだけその表現が研究されてきたという事です。伝統芸能が廃れるのは時代による観衆の変化のせいだとか言われる事が多いですが、人間100年やそこらではそれほど変わりません。表面上は、確かに大きく変化しているように見えますが、例えば環境に対する適応なんて、もっと長い時間をかけて行われるものです。そして、語彙が少なく抽象的にしか書けず申し訳ないのですが、表面ではなく深いところに直接訴えるような表現は、そんな短いスパンでは廃れません。クラシック音楽を例とすればわかりやすいかもしれません。表面上の引きが弱いため、良さを伝える機会を逃しているというのが、今の伝統芸能全般ではないでしょうか。そして、その表面上の引きを作ろうとしているのが、野村萬斎先生の『ややこしや』だったり、外からですが『タイガー&ドラゴン』だったり、今回の『キョウコラボ』だったりするのではないかと思いました。伝統芸能全般に、全然明るくない人間の戯言ですが。
話がそれてしまいました。とても豊かな表現力が、伝統芸能ならではのものという話でした。伝統芸能は、人間の深いところに訴える表現を長年研究しています。師匠の極めた表現は型として弟子に受け継がれ、弟子は型を身につけ、さらに表現に磨きをかける。そんなことが500年も行われてきたのでしょう。想像ですが。そうして磨きつづけている表現ですから、他の芸能が一朝一夕では真似できない表現力を持っているのでしょう。


素晴らしいものを見させていただきました。