クロムモリブデン『ボーグを脱げ!』

大阪の劇団、クロムモリブデンの、『ボーグを脱げ!』を観劇しました。クロムモリブデンの紹介は、キーワードのリンクを参照してください。
演劇は中学校時代、学校に来た劇団のものを見て以来、10年近く見ていません。言わずもがなですが、こういった小劇場でやるような演劇は初体験です。

混乱した、面白いかどうかさえわからなかった、1時間45分退屈しなかったというのが、見終わった際の率直な感想でした。

これから書く感想は、混乱した頭で、こうだろう、こうなんじゃないかと考えて書いたものなので、間違った方向に進んでいる部分もあるかもしれません。そういった目で読んでいただければ幸いです。また、「演劇とはそういうものだよ」ということもあるかもしれませんが、初めて演劇を見る人間の感想ということで、ご容赦いただきたいと思います。

全体について その1

この演劇を見ることで、演劇は、シナリオ、演出、役者、演技、音楽、照明、小道具といった要素が全て絡み合って作られる、総合芸術なんだなと、つくづく思わされました。
では、総合芸術としてどう見えたかというと、それぞれの要素がうまくまとまっていないように見えました。どのようにまとまっていないかは、それぞれの要素を見ていった後に記します。

シナリオの構成について

序盤ではまず、「たたかぶジャポン」(たたいてかぶってジャンケンポン。洗面器とピコピコハンマーでやるアレです。)の大会の様子が描かれます。そしてそれが、演劇全体の大きな伏線となります。

その後は、「たたかぶジャポン」とは関係のないシーンになります。各シーン同士の関係もほとんどないように見える、まったく別の話に見えるようなシーンが、暗転を区切りにして次々に、断続的に展開されていきます。しかし、それぞれの場面には、全体の芯となる要素がちりばめられます。

わかりやすく話として展開するのは、終盤のセキュリティ会社のシーン以降です。ここでは芯となる要素がある程度集約され、また主となる4人の人格も明確なものとなり、それに沿って、きちんと落ちのあるストーリーが展開されます。
ただ、これ以前のシーンが、ここで全て消化されるわけではありません。

この構成、手法としてはとても面白いと思いました。
うまく使えば、わけのわからない断片としてのシーンが、終盤にきて一気に意味を持つカタルシスが現れるのではないでしょうか。そうすることで、テーマを明確化し、より観客に届くものにできるかもしれません。
また、各シーンに共通して新となる要素を隠しておくことで、ストレートな表現よりもそのテーマが観客の心に残るようになるかもしれません。
しかし、この演劇においては、ただただストーリーをわかりにくくしているようにしか思えませんでした。そのため、シナリオに意味があるのかどうかさえわからなくなりました。
テーマについても、ぼんやりとしか見えてきませんでした。これは僕の見方が浅いからなのかもしれません。

役者について

この演劇では、一人の役者が何人もの人格を演じ分けます。が、何人もの人格はまったく別のように見えるものもあれば、一部の要素を共有しているものもありました。そのため、女慈悲とが演じてるけど、さっきの場面のこの人と、今の場面のこの人は別の人なの?というふうに混乱させられました。

これも、シナリオの構成と同じく、面白い手法だと思いました。一つの人格としてしまっては見えにくい役の本質を、上記のように演じることによって浮かび上がらせていました。
混乱もさせられましたが、この手法によって後述する作品のテーマが明確に見えたので、僕にとってはよい方向に働いたのではないかと思います。
また、このように混乱させられることで、「役」と「役者」というものについて考えさせられました。いかに自分が「一人一役」というお約束に従って映画などを見ていたのかということがわかりました。この手法は、お約束を破ったときの可能性を見せると共に、お約束の果たしてきた役割も認識させるものでした。

演技については、けちの付け所の見当たらない、完成度の高いものだったと思います。アングラな劇団でもこんなにレベルが高いのかと感心しました。

もう一つ。序盤、ハリセンがセンメンキを(両方とも役名です)をハリセン(これは道具の名前)でバシバシ殴るシーンが、モーニング娘。の曲をBGMに展開されました。これはコミカルなシーンというか、笑うべき場面なのだろうと思ったのですが、舞台とはいえ、目の前でバシバシ叩かれる様を見ているのはつらくなりました。
より痛い映像は、映画やテレビでイヤというほど見ているのにもかかわらず、です。
生身の力を感じました。これは演劇特有の凄さだとおもいます。

シナリオとテーマについて

まずシナリオを追っていきます。
序盤ではまず、「たたかぶジャポン」の大会が描かれます。
テーブルを挟んで2人の人間が座り、真ん中のテーブルには一つのモノが置かれている。2人はそのモノが攻め具(ピコピコハンマーに当たるもの)か、防具(洗面器に当たるもの)かを見極め、そしてじゃんけん。自分の道具がない人が、その道具を探しに出る。そんな場面が以下の組み合わせで展開されます。

  • シナイ vs ○メン
  • ○ハリセン vs センメンキ
  • ○ナイフ vs フライパン
  • ○カメラ vs モデル

(いずれも使用する道具にして役名。左が攻め具で右が防具。○はテーブルに置かれていたモノ)

その後は先ほども述べたとおり、「たたかぶジャポン」とは関係のないシーンがぶつ切りで展開されるのですが、そこで描かれる人物、関係は「たたかぶジャポン」のシーンがベースになっています。

メインとなる人物は4人、メン、ハリセン、センメンキ、カメラです。
メンは幼女誘拐殺人犯(しかもカニバリズム!)です。拘束具(剣道の面)をつけ、発信機を体に埋め込まれ、全てのプライバシーを世間にさらしながら、社会復帰を目指しています。
「たたかぶジャポン」で洗面器を見つけられなかったセンメンキは小学生で、父親であるハリセンに虐待されています。センメンキとモデルは同級生なのですが、彼女たちは児童ポルノで自らが商品となりうることは知っていても、思春期については良く知りません。これは先に述べた性犯罪者の保護観察が行き過ぎた影響なのでしょうか。
カメラはセンメンキの教師で、虐待の事実を知りハリセンに抗議をし、センメンキと2人で町から逃げます。しかし逃げた先で、カメラは児童ポルノ愛好者であり、センメンキとの擬似親子関係を望んでいたことが明らかになります。センメンキは、追ってきたハリセンやカメラを含む登場人物すべてをその場面で殺し、一旦話は区切られます。
最後は、登場人物全員が高校の剣道部で青春をしているという、今までとは異質なエピローグ的な場面で終わります。

さて、ここで見えてきたテーマが二つあります。

一つは、行き過ぎた安全保障のために生まれた、エキセントリックな社会です。作品の中で大きく扱っていた性犯罪者の保護観察以外にも、子供を守るために登下校は紐でお互いを結んでつきそい、家に「監禁する」親などが描かれます。信頼を置いてきぼりにして安心だけを求めたら、こんなおかしな社会になってしまうよ、という警笛にも受け取れます。

もう一つは、人と人との関係の中に当たり前のように存在する、両者のパワーバランスです。これは「たたかぶジャポン」で表されています。
先ほども見てきましたように、ハリセンとセンメンキは虐待の加害者と被害者という関係、カメラとモデルは殺人の加害者と被害者という関係。どんなフライパンでも突き通すナイフと、どんなナイフも防ぐフライパンは、絶妙なパワーバランスの上で、常に緊張した夫婦関係を続けています。面白いのがメンとシナイです。メンは唯一防具を先にとった人物です。この場合、あいこになりますので、人々の力関係とは無縁のところに立っています。途中シナイとの対話で、互いに攻め具、防具を置いてもう一度やり直したとき、二人は力関係の存在しないフラットな関係になることができたのです。
もう一度注目したいのは、これらの力関係が「たたかぶジャポン」で決められたということです。これは、そんな力関係なんていうのは、実は何の意味も無いんだ。ただ決まっただけなんだということを表していたのではないでしょうか。

と、ここまでシナリオをなぞって、そこからテーマを考えてみたのですが、やはりぼんやり見えているものですので、スッキリしません。作った方はここまで考えているのか、もっともっと深いところに表したいものがあったのか、そもそも方向からして違うんじゃないかという疑念が消えません。
実際、テーマは、それとしてあるだけといった印象でした。話題となっているが考え出したら深そうなトピックを、そんな事象がありますよ、というふうに扱っただけのように感じられたのです。

笑いについて

シナリオなどとは打って変わってわかりやすい、大きな声と身振りで表現される、ベタな笑いでした。ほとんど笑えませんでした。
わかりやすいだけに、ここで笑えばいいんだろうな、というところはすぐにわかるのです。また、テレビと違って、こちらの笑いが届くところに役者さんがいるので、笑ってあげたいのです。でも、笑えないのです。このジレンマに苦しんで、序盤はいやな汗までかきました。

ベタなくだらない笑いでも、立て続けにやれば笑えるものです。しかしこの演劇ではそれでもなお笑えませんでした。なぜこんなに笑えなかったのでしょうか。思うに、舞台のほかの要素にマッチしていなかったからではないでしょうか。

笑いは大雑把に2種類に分けることができます。客より自分を低く見せる、笑われる笑いと、客より自分を高い位置に置いたまま、笑わせる笑いです。前者は媚びた笑い、後者は突き放した笑いと言えるでしょう。今回行われた笑いは、ほとんど前者でした。

一方この舞台は、故意にわかりにくくしている、見る人を突き放す性格を持っています。このミスマッチのために、笑えなかったのではないかと思います。

唯一、舞台にマッチして笑えたセリフが、「女の子は少し元気なくらいなほうが、男の子なんですよ」です。

音楽について

判断に困るところです。

フジファブリックも、オフスプリングも、前に出して使われていた曲は全てコミカルなものに聞こえてしまいます。特にフジファブリック。一見(一聴?)カッコよさげなセンスのよい曲のように聞こえて、実はコミカルな曲です。終盤の、コミカルなんだかシリアスなんだかよくわからないが勢いのある場面に使われていて、そういった意味ではマッチしていたのかもしれませんが、

オフスプリングは格好よい印象でありながらキャッチーな曲なので、広く受け入れられやすいのですが、こちらも浅いですし、何よりなんで今オフスプリングなのかがわかりません。これが中学の同級生の部屋で流れているのであれば何も言いませんが、表現者たるもの、もっとアンテナを張っておいてほしいと思いました。

ただ、大きな音で音楽を聞く気持ちよさはありました。それだけに、微妙な選曲が残念でした。

その他

背景の黒幕に白いペンキか何かで描かれていた、意味のわからない絵(絵かもわからない、簡単なもの)は、暗転の際、暗くなるときには最後まで目に残り、明るくなるとき一番に目に入ってきます。
この演出もあって、バラバラに見える舞台を、一本芯のあるものとして認識しました。

暗転は、各場面のつながりの無さを強調していてよかったように思います。この舞台では、各場面がつながるべきは、舞台ではなく、観客の頭の中だったのだと思います

照明は、見せ場ではライブのような使われ方をしていました。見慣れているからか、違和感無く見てられました。演劇ではこういった演出は普通なのでしょうか、それとも特殊なのでしょうか。

全体について その2

このように、斬新でわかりづらいシナリオと配役、面白い社会問題を扱ったテーマ、ベタな笑い、これらがうまく絡まりあっていませんでした。それぞれの要素が殺し合い、結局あまり伝わるもののない舞台になってしまったように感じました。

テーマを伝えたいのなら、あのような笑いは不要です。皮肉りたいならそれに向いたネタをやらなければ伝わりづらいです。
斬新な手法を前面に押し出すのであれば、もっとわかりやすいシナリオを分解しなければ、ラストのカタルシスが弱いです。
わけがわからないものを作りたいのであれば、シナリオもわけのわからないことをわかりやすく伝えるものにしなければなりません。そして、それでも迫力を感じるような、凄みがなければ何も残りません。
笑いが見せたいのであれば、それに応じたシナリオ、手法を取らないと、笑いが自然に入ってきません。
音を聞かせたいのであれば、もっとアンテナを張っておくべきです。ここだけは人の作った物を使うのですから。

最後に

演劇を見るのが初めてのようなものだったので、自分の中に評価するための物差しがなく、無意識に映画の物差しで見ていたように感じます。
その目で見ますと、ひとつひとつやりたいことは、概ね面白そうに見えますが、それがどれも中途半端にしか表現しきれていないように感じられました。
総合芸術である演劇とは、このようなものなのでしょうか。それとも、見る目が肥えれば、面白く見られるのでしょうか。

とにかく、他の演劇も見てみたいです。その際、この演劇が、ぼくの物差しになるんだと思います。