『ダ・ヴィンチ・コード』女性不在の女性の物語

※このエントリーは小説を読む前に読むと興をそぐ恐れがあります。


よい娯楽小説である。キリスト教、特に聖杯伝説にまつわる薀蓄が満載で、それも噛み砕かれてわかりやすい。展開はハリウッド的な見せ場の連続で飽きさせることがない。文章はあまり上手くないが、場面情景は容易に想像でき、その面でも映画的である。


この本を読むに当たりまず念頭においておかなければならないのは、キリスト教が欧米における一貫した伝統思想であるということだ。新たに登場する思想は、たとえ批判であれ、キリスト教を軸にその位置を決める。日本は神道仏教儒教などの古くからの思想も雑居状態にあるため、このキリスト教に対応するものがない。このため少し捉えにくくなっているように思う。
キリスト教が伝統思想であるということは、そこにある考え方、たとえば女性観なども広く一般的に共有されてきたということである。一宗教における考え方ではあるのだが、日本人がその言葉の意味のままに捉えては問題が矮小化してしまう。日本における宗教とは別物として捉えなおさなければならない。そうすると、この小説がいかにショッキングなものであるかが見えてくる。本や映画を取り巻く現実の教会のアレルギー的な反応にも納得がいく。


ここから表題の感想に入る。


この小説は、女性不在で描かれた女性の物語である。
聖杯、マグダラのマリアを通じて、キリスト教における女性の扱いを巡る物語でありながら、そこには女性の視点がまったく欠けている。男性だけが語る女性の物語と言い直してもよい。
女性を貶めるのも男性なら、女性を神聖視し、その貶められた状態を回復しようとするのも男性である。
性交、出産、女性器などは、女性にとっては「ごく当たり前のこと」、というのは言い過ぎかもしれないが、生物的に捉えらえられていることのはずだ。しかしそのような視点が、この物語にはないのだ。


具体的に見ていこう。


物語の核をなす要素として、絵画や建築に表象として女性信仰の証が隠されており、それを解き明かすことで真実の物語が見えてくるというのがある。ここで隠されている表象は女性器を表すものが多いが、こんなことをするのはいかにも男性で、それを特別視しているからこそ表象とする。逆に考えてみればわかるのだが、男性がそういったことを好む一方、女性はあまりそのようなことはしない。何も特別ではないからだ。


次に登場人物を見てみると、この長い物語には驚くほど登場人物が少なく、さらにその中で女性というと3人、ソフィーと祖父のマリー、それにロンドンの司書しか登場しない。
男性の登場人物は、みな人間臭く描かれている一方、3人の女性は、自らの意思を表に出さず、またそれに従った行動というのもない。物語に必要不可欠な要素で「ある」というだけだ。ヒロインのソフィーがいてさえそうなのだ。彼女の暗号学の知識が生かされることはない。ただ祖父ソニエールと過ごした日々だけが彼女の存在意義となっている。
彼女が自分の意思で行動する場面は、小説前半に集中する。後半は過去の記憶と向き合いながら、行動としては状況に流されてゆくのみだ。ソニエールの儀式を見たトラウマが解決に至るくだりなど、ただただラングドンの思うがままに操作されている。さらに言えば、この物語の中のソフィーは、ソニエールによって完全にコントロールされていた。


もうひとつ、ソフィーの「女」としての側面が、作中ほとんど描かれない。最終的にソフィーとラングドンは恋愛関係となるのだが、そこに至るまではラングドンがソフィーに好意を寄せている描写のみが時たまあるだけで、ソフィーの恋愛感情についてはほとんど描かれない。また、ティービングの卑猥な話にすら反応が無かった。
最終的にはソフィーが女(エロス)の象徴として現れるのだが、上記のためソフィーについては唐突な印象があった。


この点、小説の中で語られるマグダラのマリアの話に重なる。
小説ではマグダラのマリアがイエスの妻であり、地位も高かったことが衝撃的な事実として語られている。イエスが男女平等主義で、マリアをいかに愛し、重用していたかを、他の弟子がいかにマリアに嫉妬したかを、新約聖書からははずされた福音書を引用して暴いている。しかし、マグダラのマリアがいかなる人物であったか、どのような考えを持ちどのようなことを為したのか、マグダラのマリアの物語にはそれが欠けている。


さらに思い起こされるのが初期ユダヤ教の聖婚(ヒエロス・ガモス)についての話である。以下に聖婚ついての記述を引用する。

古代には、男性は精神的に未完成であり、聖なる女性との交接によってはじめて完全な存在になると信じられていた。女性との肉体的結合は、男性が精神的に成熟し、ついには霊知(グノーシス)―神の知恵―を得るための唯一の手段だった。
(中略)
「女性と通じることで、男性は絶頂の瞬間を迎え、頭が空白になったその刹那に神を見ることができるんだ」
(中略)
男性は精神の充足を求めて神殿を訪れ、巫女―すなわち聖娼―と交わり、肉体の結合を通じて神にふれようとした。
ダ・ヴィンチ・コード(中) (角川文庫)』P.276

この考えは教会にとって教義を揺るがす脅威であったため、セックスは不当に貶められのだ、本来セックスは神聖なものだ、そうラングドンは説くのである。
そしてやはり、ここにも女性の視点がない。セックスを通じて神を見るのは男性であり、女性はただその媒介としている。聖娼は聖婚を通じて何を得るのか、男性がオーガズムの瞬間に神を見るのなら、女性はどうなのか。そうしたことは一切わからないままである。


このような古来の女性不在の物語から見えてくるのは、男性が女性を別の生き物として捉えている節があるということである。同じ人間として捉えられていない。イエスがマリアについて語った、以下の一文を見てもわかる。これは『トマスによる福音書』に記されている。

シモン・ペテロが彼ら(イエスの弟子たち)にいった。「マリハム(マグダラのマリア)は私どものところから去った方がよい。女は命に値しないのだから」。イエスがいった。「見よ、私は彼女を連れてゆく。私が彼女を男性にするために。彼女もまたお前たち男性と同じ霊になるために。なぜなら、どの女も、自分を男性にするならば、天国に入るのだから」(語録番号114)
民族の世界史 (8) ヨーロッパ文明の原型』P.279-286(『ダ・ヴィンチ・コード』 (4) - 死海文書とマグダラのマリア : 世に倦む日日より孫引き)

要するに、男性というのが人間であったのだ。ここでイエスは、女性を人間にすると言っているのである。この時代はそういう時代だった。


ここで話をソフィーの祖母マリーに移す。彼女は最初から「母」として現れる。物語全体を包み込む母である。彼女の出現によって、まるですべてが彼女の両手の中で行われたかのような錯覚さえ受ける。
男性は、男性だけは、その母の手の内を突き抜けることはできない。それには女の手助けが必要であり、その役割をソフィーが果たす。ラングドンに口づけをして、聖杯探求のこどもっぽい熱中から引き上げる。こうしてはじめて男性は母の手の内から逃れ、女性と対等な立場に立つことができる。聖婚といっしょである。


ダ・ヴィンチ・コード(上) (角川文庫)

ダ・ヴィンチ・コード(上) (角川文庫)