佐藤友哉について
僕がこの人を知ったのは大学のときで、中野で映像版『多重人格探偵サイコ』のリミックス映画(元の映像版は三池崇史が監督を務めWOWOWで放送されたもので、それをマンガの原作者である大塚英志が編集し直して映画にしたもの)の上映会があり、その上映前に行われたトークショーで大塚英志に紹介されていたのが佐藤友哉だった。
この出会いからして痛々しい。何が痛々しいかといえば、自分のサブカルかぶれっぷりが痛々しい。さらに言うとステージでは「お土産を持ってきました」とSTUDIO VOICEのエヴァンゲリオン特集号が取り出され、それは「みんな引いてるじゃないですか」というようにネタとして使われていたのだが、僕はまだそれを大事に持っていた。たぶんいまでも実家の本棚に残っている。
僕自身の痛々しさはどうでも良い。ここで大塚英志が佐藤友哉を評して、次のようなことを言っていた。
佐藤友哉の作品は、その個々の要素だけを取り出してみればどれもエロゲーで使われていたネタであり、そのすべての出典を指摘できるおたくもいるだろうが、しかし佐藤友哉のようにそれらを一つの物語としてまとめることのできるおたくというのはなかなかいない。
確か大塚英志はその若さも含めて評価していたように思う。映画のリミックスと、佐藤友哉のエロゲーのリミックスとしての小説を絡ませて話をしていた。
このようにして佐藤友哉を知り、サブカルかぶれとしては読まなければと思い、後日すぐに購入して、それを読んだ。
読んで感じたのは嫌悪感だった。話として面白くない訳ではないし、僕ら世代的なコネタがちりばめられていることを考えれば気に入ってもよいはずだと思う。しかしそうはならなかった。これが意外だった。
なんでこんなに胸くそ悪いんだろうと考えた。考えた結果思い至ったのは、小説でコネタとして扱われているものが、僕にとっては小説より大事だからだ、ということだった。
さて、何でこんなことを今になって書いているかといえば、つい最近以下のような記述を見つけて、上記のことを思い出したからだ。
昔、佐藤友哉さんの「フリッカー式」がメフィストに投稿されたとき、編集者による匿名選考会で太田克史さんがなんでこの人は僕がこんなに大事に思っているものをこんなふうに無造作にポンッとひっぱってきちゃうんだ!と怒りをぶちまけたのだけれど、
読んでみたら面白い、という最悪
佐藤友哉が作中に「ポンッとひっぱってきちゃう」無数のものは、人それぞれの持つ「こんなに大事に思っているもの」に引っかかる。そしてそれは僕ら世代に引っかかりやすい。
たとえば僕は邦楽ロックにかぶれていたので、以下の文章がそれにあたる。
社内は無言だった。カーステでもあればプリスクールかDMBQを流してこの沈黙を(表面上ではあるにせよ)掻き消せるのだが、あいにく僕の車には縁のない代物。
佐藤友哉 『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人 (講談社ノベルス)』
たとえばここでRCサクセションやルースターズなんかをもってきたら、僕らの世代には引っかからない。そういう意味で、佐藤友哉は完全に同世代の作家であった。同世代でしかも作家も読者も若かった。だから僕は思い切り反発してしまった。
よかれ悪しかれ、このように強烈な感情を起こす小説は、ぼくにとってはあまりなく、さらにそれが若さによる強い思い入れのためというのも珍しい。
なぜかいまだに持っているので、今もう一度読んでみると面白い、かも知れない。