読まずに批評『国家の品格 (新潮新書)』

僕がこの本について知っているのは、タイトルと帯の文句、武士道を掲げていること、くらいである。その情報だけを元にこの本について語ってみる。
というのも、この情報だけですでおかしいと思うところがあるためだ。


日本が国家としてようやく立ったのは、明治維新後である。その前の江戸時代を見るとわかりやすいが、農民は年貢を納めていればよく、それ以外の義務はなかった。いまある三大義務のうち、納税さえしていれば、あとは国家に対して何の責任も負っていなかった。故に、農民は国家というものを意識することがなかった。これは、士農工商の士族以外、すべてに当てはまる。
また、本書にて上げられている武士道精神を持つ士族にしても、国家という意識はなく、「〜の殿様の家来」という意識が強かった。しかもその殿様が頼りなければ捨てて他へ行く自由もあった。ここにもまた、国家はない。


国家が日本人に重くのしかかってきたのは、日露戦争以降である。
日露戦争開戦前、国民はマスコミと一体となり、ロシアの圧力に反発して開戦を迫り、また開戦後は遠い地での連戦連勝に驚喜した。
一方開戦を決めた政府の人々は、維新後日本を作ってきた人々であり、そのため国家としての脆弱さを痛いほどに感じて、もし負ければ日本がなくなってしまうという悲痛な危機感を持っていた。そのため、開戦を決めた際、重要な場面で泣いてしまうという事があった。戦地に赴く人々を思ってのことではなく、日本の前途を思っての涙である。これから戦争を始めるという国においての出来事だ。
このどちらの場合をとってみても、日本でようやく国家とその責任が実感されたということがわかる。


話を武士道に戻すが、それは日露戦争の頃のように国民全体が国家を意識する中では成立していない。
江戸時代では士族は他の身分の人々に尊敬される特別な立場で、だからこそ尊敬されるに値する武士道精神に磨きをかけた。武士は食わねど高楊枝であり、裕福な庄屋さんもそれを見てお侍さんは偉いと思った。
その特別な武士道精神を、日本国民全員に適用しようというのは無理がある。僕を含めてほとんどの人間は、農工商の庶民であることを忘れてはならない。しかも日本の庶民は、国家という意識を持つのが遅かったためか、民主主義への参加だって未だに意識が低い。


国家の品格 (新潮新書)

国家の品格 (新潮新書)